夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

取り戻せない時間

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先日、母の誕生日祝いで外食しました。

だいたい誕生日祝いは、何か欲しいものがあるか聞いて買うのですが、たまには食事でもよいかなと私の方から提案しました。


記念日だし、景色のよさそうなところがよいなということで場所はすぐに決まったのですが、お店はグルメサイトとか眺めててもイメージが湧かず頭痛がしてきたので(笑)、取りあえず行ってから探すことになりました。


当初ランチをする予定だったのですが、家を出るのがお昼頃でランチタイムに間に合わず(起きられなかった……(~_~;))、結局ディナータイムに食事しました。


確認しなかった私が悪いんですが、ゆっくり食事をしようと思っていたのに、ディナータイムはバイキング形式(今はビュッフェって言うんだっけ……)になることに気づかず、正直お祝いムードがすっ飛んでしまいました。



味は美味しかったです。

ただ、以前よりだいぶ食べれなくなってしまったらしく、最後の締めにデザートをとケーキを全種類連れてきたら見事に撃沈しました。(@_@)

最後はお皿に乗った大好きなチョコレートケーキと、外の景色を交互に見つめていました。


落ち着かなかったのはバイキング(ビュッフェ……)形式だったからというだけでなく、子供がせわしなく走り回ってた、からだと思います。
何度もお尻から振動が伝わってきて、居心地がよくなかったなと……。


お店を出て、食べ過ぎで動けず外にあるソファーで伸びていると、その場にいた子供という子供はみな走り回っていました。

その場にいた親御さんは、きっと私ぐらいの年齢なんだと思います。



親の子供に対する接し方に「正解」なんてないけれど、小さいうちの親からの影響って意外と生きている間ずっと続くものだなと実感したりします。



私の家は早々に崩壊してたので、食事に連れてってもらえる子供が羨ましいなんて思ったりします。

うちの場合、数えるぐらいは外食に行ったことはあっても、大抵父親がキレるので、あんまり楽しかった記憶はなかったりします。


ホントは家族でもっと出かけたかったな。
そういう思いはずっと消えない。

仮に何かの手違いで新しい家庭を築くことになって、「それ」を再現しようとしても、それは自分が欲してたものとは違う気がする。


今子育てをしている方は、自分が出来る限りでよいので、子供にしてあげられることはしてあげるとよいだろうと思いました。

打ち上げ花火、夏に見るか秋に見るか

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 少し前になりますが、今月に開催された某花火大会に行きました。


花火大会はたいてい夏にやることが多いイメージですが、秋の方が涼しいし虫刺されの心配が少ないので(笑)、私は安心して見ていられます。



当日は雨が降っていて中止になるのでは、と半ば諦めモードでした。


大会のホームページをちらちら見てたら、どうやらやるらしく、「花火は濡れても大丈夫なのか?」と思いながら電車に乗って現地に向かいました。


大会には去年も行きましたが、今年は雨だから人は少ないだろうと思っておりましたが、駅から吐き出される人、人、人の群れ……。あれれ。


 

 去年はわりと川のそばまで入れたので、花火を遮るものが少なくて見られたのですが、今年はロープが張られていて、見るスペースが狭くなっていました。


幸い小雨ぐらいだったので、カメラにタオルを乗せながらパシャパシャ写真を撮ってました。



写真を撮るのが好きな私が毎回思うのは、写真も撮りたいけど、撮ることに夢中になっていると現物をちゃんと見てない気がしてもったいないなという葛藤。


でも「記憶」は色褪せていくものだから、「記録」で補いたいと思ってしまいます。



毎日ツラいことが続いていても、一瞬の感動と向き合ってる時は、全てを忘れられる気がします。

 去年もそんなことを考えながら花火を見ておりました。

 

去年の記事がこれ。

(今文章見返すと恥ずかしいですが、写真が今年のよりは鮮明かな?)

tokio.hatenadiary.jp



何か煮詰まってきた時は、こうして写真を撮ってると気が楽になります。


調べてみると結構秋に花火大会やってるようなのですが、今月は週末を2回も台風が襲ってきて中止になるところも出てしまっているみたいですね……。

非常に残念ですね。(~_~;)

 

人間の価値

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私は現在、フルタイムで一週間の半分以上は働いております。

生活するための労働とはいえ、この働いている時間を他の活動に充てられたらどんなにいいだろうか、と常々思っております。


以前TVの某番組で、駅にいる人を捕まえて、(仕事があるなら会社に許可を取って休ませて、)その人がやりたいと思っていたことを一日させるーーーー
といったものがやっておりました。

声をかけられた人は、急に会社を休めと言われて戸惑いますが、「この機会に……」と企画に乗っかってくれる方もいます。


「行きたいと思っていたのに行けなかった場所」に行ったり、「やりたいと思っていてなかなか出来なかったこと」が出来る。
そうして過ごした一日はとても充実していて、参加された方のその表情も初めと比較すると、とても満たされたように見えました。



こんなふうにして毎日を過ごせたら、幸せな人生だなと思います。

人の人生に限りがあるからこそ、この長くも短い時間を大切にしたいと思っている人が多いはずなのに。


それなのに現実は…………。


この番組内でも、企画に参加したい気持ちはあっても、「時間が取れない」、「休めない」という方が多かったように感じました。



例えば仮に、皆がお金がなくても生活していける状態で、「生活のために働く」必要がなく、やりたいことで好きに一日を過ごせるようになったら、世の中どうなるだろうか。


私は取りあえず国内で行きたいところがいくつかあるので、まず電車に乗ってーーーーー





ん?

皆が好きに生きるようになった時、電車は動いているのかしら?
(今電車の運転手をされてる方は、「仕事だから」してるのか、「好きだから」しているのか、それとも両方?)


電車が動かなければ徒歩か自転車 (車を持っている方なら車)で移動することになるわけで。



で、行きたい場所に何らかの手段で向かったとして「あー疲れたし何か食べたいな」と思ってお店を探すと……。

はて、コンビニや飲食店はやってるのかしら?
(同じく、今コンビニや飲食店で働いている方は、「仕事だから」してるのか、「好きだから」しているのか、それとも両方?)


もしどこのお店もやっていなかったら、念のため持参したおにぎりを食べる私。
買ったやつではなく、朝早く起きて自分でにぎにぎしたやつ。



なんてね。


そこまで極端なことにはならないだろうけど、社会を維持していくために誰かがやらなければいけないことが仕事というモンなのだろうね。

私はやりたいことをするために、自分の限られた人生を使って、自分の出来ることをして、それをお金に替えているだけのこと。



「命は皆大切」
っていうけれど、本当かしら?

「人生の価値も皆平等」
って私は思いたいけど、現実はどうかしら?


同じ時間働いて、同じような仕事をしている人でも、それに支払われる対価は平等ではないかもしれない。
同じように人生の時間を提供していることには変わりないのに。



人間の価値は、どれだけ世の中で「有益なもの」を生み出せるか、で決まってしまう傾向にある気がします。
「有益なもの」を多く生み出させる=「地位や名誉がある、高収入」といった目に見える分かりやすい指標で語られてしまうのかもしれません。


私の今の収入は生活していくのに精一杯な感じです。
私の場合、やれることが少ないから低収入なのかもしれません。


でも何もない私でも、ブログを書いたり、絵をかいたりは出来ます。

それが価値のあることかと言えば怪しいですが、何が人のためになるか分からないけれど、日々の中で、考えたり感じたりしたことを形にして、常に世の中に与え続けることが、その人の人生の価値になっていくのではないかなーと思います。

それはボランティアや子育てといった、お金がもらえるような活動でなくても、自ら考え、自ら動き、自ら与え続けることが大事ではないかと、私は思うのです。



これからの世の中は、私が先にヘンな例で出した電車の運転や、飲食店の営業も人工知能で回されていくのかもしれません。
そうなれば仕事に充てていた時間が減って、その分自分がやりたかった活動に充てることが出来るようになるかもしれません。


たとえそのような世の中になったとしても、常に世の中に価値を生み出すという姿勢は維持していきたい、と思います。

変わりやすい、人の心と秋の空

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ここ最近、気分が沈んでました。

そういう時は何もする気力も湧かず、何をしても全部否定的な考えに引きずられていくので、ブログも書ける状態ではありませんでした。


少し前に何か思って書いた記事も、下書きの中に置いたまま。
まるでお客さんに出そうと思って握ったお寿司を出しそびれて、ネタの鮮度がどんどん落ちて出すタイミングを失い、ご飯もかちこちになってるようなもんです。

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それに人に何かを話す時は、ある程度自分の中で考えが固まってからじゃないといかんなというのもあるかもしれません。


何で気分が沈んでるのか色々考えてました。
元気にならない話なので、こちらの記事にお越しになった方、スルーしてもよいのですよ。



私が勤める職場の先輩は、どちらかというと気分に波があり、落ち着いている時は普通の調子で話かけて下さるのですが、急に何かのスイッチが入ったように鬼の形相でにらみつけて、私の態度や行動を責めてくることがあります。

その度に、
「人間って何なのだろう。」
と、哲学の旅に出てしまいます。


これまで何人もそういう人に出会ってきましたが、何が大変かというと、いつ態度が変わるか分からないから、いつも緊張状態が続いて、いつの間にか疲労が半端ないことになってるからなのです。


それでよみがえった苦い記憶が…………。



私が大学時代の友人に、引きこもり気味で授業も来たり来なかったりする方がおりました。

私は生きるのが不器用そうな人を見ると何か親近感がわいて、もしその方の周りに誰も助けてくれる人がいなくて、こんなダメ人間の私でも頼りにしてくれているならば何か出来ないかなと思うところがありました。


なので「遊びに行こう」と誘いのメールを出したら、返事が来ないのです。
嫌なら嫌で、はっきりしたかったのですが、それを確かめるのも怖くて、敢えて触れずにいました。


その友人とは同じ授業を選択してることが多く、たいてい相手から話かけてくれていたのですが、その友人はある時から離れたところで授業を受けて、そのまま一人で帰っていくようになりました。


「私、何かまずいことしたのかしら…………。」


と、自分で自分を責めるようになり、まるでうつ病のような状態になってしまいました。


それから半年ぐらいたってその友人から、
「どこ行こうか?」
と返事が来たときには、もう嬉しいのか悲しいのかワケが分からず、ただ、混乱して疲れきっている自分がいました。



人間って分からないなと思います。
自分のことだって十分に理解しているとはいえません。


ただ相手の態度から「想像」するだけ。
それはあくまでも自分の「想像」であって、実際の姿とは違うのかもしれません。


私は自分から声をかけた方と親しくなった試しがないので、自分から誰かに声をかけることも控えるようになりました。
自分に興味がない人に声をかけても、きっと迷惑なんだろうし、何せ自分がよれよれになってしまう。


色々考え過ぎなんでしょうね、きっと……。
相手の態度がどうであろうと、いちいち気にしないで「そんなものか」と思えればよいのですが。



あと、ここ最近の曇り空と雨天がよくない。(+_+)

私はこういう天気だとなぜか気分が落ち込みやすいので、早く回復して欲しいのです。🌈☀


私の大好きな秋がすっ飛ばされて、いきなり冬が来てしまってがっかりですよ。( ´△`)

誕生日滅入る

一昨日は私の誕生日でした。

10月9日を意識しているのは、同じ10月9日の誕生日の人だけで、他の人はただの月曜日で祝日で、体育の日なんだろうと思います。

歳が一つ増えたところで、急に何かが変わる訳でもなく、いつもの休日と何ら変わりなく、布団を干して、衣替えをして1日が終わってしまいました。



誕生日というと、兄貴からいつもメールがきます。
普段全く連絡をしてこないのに、何故か私の誕生日だけは(兄貴が独り暮らしをしてから)毎年欠かさずきます。


それが夕方にもなっても来なかったので、
「忘れたんだろう。(@_@)」
と思っていたら、忘れていませんでした。


いつもはホント短い文章2、3行ぐらいで
「おめでとう。今年はうんぬん……」
という感じなのですが、今年は長い…………。


兄貴の文章が長すぎて、しかも主語がすっとばされて、兄貴のことなのか、私のことなのかわかりづらかった。

でもまぁ、要約すると、
「一人の人生は孤独だから、親が死ぬ前に備えておけ。」
ということらしかったのです。


備えろと言われてもねぇ…………。

兄貴は少し前に「結婚できないと孤独死だ」みたいなことばかりをずっと言ってて、どうしようかと思っていたのであーります。



私は今30代前半ですが、この歳にもなると結婚する人が増えてくる気がします。

私みたいにいつまでも独身でいると、「何か人格に問題でもあるんじゃないか」って思われたりするんだろうな…………、と最近は思うことも多くなりました。


そりゃー、帰ったら誰もいない暗い部屋はテンション下がるだろうし、「独身でも寂しくない」といえば嘘になるのかもしれませんが、あまり「結婚、結婚」って考え過ぎない方が気が楽ではないかと、思うのです。


こればかりは私と兄貴で「何が幸せか」の基準が違うからなのかもしれないし、男女によって事情が異なるからなのかもしれません。


今の時代、生涯未婚の人の割合だって増えてきてるのですから、段々とそういう生き方でも生活していけるよう、社会の方が変わらんといかんのですよ。


兄貴には私と違って学生時代からの友人もおりますし、野球のことだったら大体何でも知ってたりしますので、そーいう「今自分が持ってるもの」を大切にしていって欲しい、と、妹は思っておるのですよ。


って、誰の誕生日だっけ……?

取り替えの出来ない人間

先日ノーベル文学賞の発表があり、カズオ・イシグロさんが受賞されたとのニュースがやっておりました。

…………。

残念ながら私は彼の作品を読んだことはありません。(~_~;)


でもイシグロさんの著作を原作とした『わたしを離さないで』という映画を見に行ったことがあります。

私は原作のある映画を見たら、たいてい原作の方も読むことが多いのですが、図書館では借りられていることが多く、人気のある作品なのだなと実感しておりました。(買いなはれや~と言われそう……(笑))



その映画を見に行ったきっかけは、その何ヵ月か前に『ソーシャル・ネットワーク』というフェイスブックの創業者の方をモデルにした映画を見に行ったことでした。

そこに出られてた俳優の方の演技が気になっていたのですが、たまたま美容室で待ってる時に読んだ雑誌にこの『わたしを~』が紹介されていて、見に行こうと思ったのです。

「あっ、あの俳優さんが出てる。(@_@)」



公開終了の一週間前ぐらいで、急いで映画館に向かいました。🏃💨

映画についてはほとんど前知識もなく、雑誌にはざっくりとしたあらすじしか載っておらず、物語の「核心」には触れられていませんでした。



映画を見てから間があるので、記憶が鮮明ではないのですが、その時の感想を振り返ってみました。


確か物語の初めは、手術室に横たわる男の人をガラス越しに見つめる女の人のシーンから始まったと思います。
恋人が「病気」で、「先は長くない」のかなと思えるシーンでした。


それから小学生ぐらいの子供達の「学校」での生活の描写がありました。

いつもいじめられてる男の子がいて、それを主人公の女の子が気になって話しかけるようになり、段々と2人は親しくなります。

その様子を見ていた別の女の子が嫉妬して、2人の間に割って入って、それは年齢を重ねるごとに三角関係うんぬんという話になっていきました。


映画に出てくる建物とか自然の風景とか素敵な感じで、この恋愛物語がどういう方向に行くのかな~という感じでした。


私は最初、その中で度々出てくる「オリジナル」という言葉の意味がよく分からず見てました。

物語が進むにつれて、その意味を理解した時に一気に寒気のようなものを感じました。



どうやらこの「学校」と思われる施設で生活する子供達はみな「誰かのクローン」で、元の人間の臓器が使えなくなった時に、代わりに臓器を提供することを運命づけられた子供達でした。

衝撃的すぎて固まってしまいました。(@_@;)



でも映画前半の、子供達の様子や彼、彼女が抱く感情の描写が「普通」と変わりなかったからこそ、後半部に生きてきたのかなと思いました。

肉体こそは誰かのコピーであっても、人が生まれてから接する環境や人々によって作られる物語は、コピーしようがない一回性のものなんだと。



三角関係の終わりは、嫉妬していた女の子が主人公の気持ちを知りながら彼を自分のものにしようとしたことを謝り、複数回目の臓器提供を終えて亡くなり、やっと両思いになれた主人公と彼も、すぐに彼の方にも臓器提供の運命がやってきて……、

で、冒頭のシーンに至る、という感じでした。



普通の恋愛映画でしたら、恋敵の女の子は非難の対象になりそうですが、彼女達の運命を思えば、いつでも死が身近にあって、自分の人生設計もままならいのですから、ずるい方法でも束の間の恋愛ぐらいよいではないかと思える部分もありました。



この映画を見た2週間後ぐらいに、私の叔母がくも膜下出血で倒れて帰らぬ人となりました。

この年は叔母以外にも身近な方が1人亡くなったり、母が入退院を繰り返していたりと、人の生き死にについて考えてさせられることが多かった気がします。


特にこの映画を見に行った2011年の6月は、東日本大震災が起きて3ヶ月後の世の中でした。
私より若い方も大勢亡くなって、まだ自分の人生とか考えることもないうちにこの世を去った小さい子もいらしたと思います。


明日また一つ歳を重ねる前に、人生について考えてみた私であります。


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映画のパンフレット

「正しさ」とは何だろう

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ここ最近、毎日のように会社で先輩に怒られていて、正直会社に行くのがつらかったりします。


怒られる理由が理解出来るものであれば苦しくないのですが、「私には」理解出来ないものが結構あったりします。
「理解出来ない私が悪いのか」、それとも「理不尽なことを言われてるのか」とずっと考えて疲れてしまいます。


ここでそれを詳しく書いて、もし読んで下さった方がいたとしたら、その方の受け取り方によって、「怒られて当然」と思う方もおられるだろうし、「理不尽なことで怒られている」と感じる方もおられるかもしれません。



「正しさ」って一体何でしょうね…………。




人が何か行動する時は、必ず「その人なりの理由」があるはずですが、それは「その行動を見た人の感じ方」によっては違った意味合いになっていくものだと思います。

いい例がすぐに思いつかないのですが、例えば、はたから見れば「捨てちまえ!」と言われるものであふれるゴミ屋敷も、本人にしてみれば「いつか使える宝の山」という話。



人は他人の行動を見て、なぜそうしたかを理解出来れば肯定的な態度を示し、理解に苦しむ場合は否定的な感情を示すのだろうと思います。

ゴミ屋敷の例で言えば、家中を満たしているものが全て「亡くなった奥さんの私物」とかだったら、否定的な目で見ていた人の一部は「仕方ないか」と思うかもしれない。



先輩に言われた一言だけは納得しました。


「仕事は結果が全て」



家中を満たしているものに思い入れがあろうがなかろうが、はたから見ればゴミ屋敷。


私が「よかれ」と思ってしたことも、相手にとって不快だったり迷惑だったとしたら、どんな意図があったとしても関係ないのだと。



私は元々相手が「どういう意図でそうしたのか」を読み取るのが苦手だったりします。
それに加えて私はヘンなヤツなので、「自分がどういう意図でそうしたのか」を理解されないことが多いのです。

自分の思う「正しさ」が本当に正しいのか、分からなくなってよれよれに疲れてしまう人生なのです。