夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

自分の居場所

つい先日母親と口論になり、ここ一週間ぐらいロクに口をきいておりません。

何で毎回こうなるんですかね。(~_~;)


私が一年でブログの記事を書いてる数よりも、母と口論してる数の方が多い気がする……。

ここ数年は平和な家族のドキュメンタリーとか見ると、思わず泣いてしまいます。

何でうちはこうじゃないんだろうって。


兄とは色々あってほぼ絶縁状態(?)だし。
こちらから誕生日メールをしても、年賀状を送っても何の音沙汰もなし。


父親があんなんだし、
兄貴はこんなんだし、
母親はそんなんだし。


何だか人生めんどくさいな、って思ってしまいます。
お互いの正しいをぶつけ合ったところで平行線だし、どちらかが譲歩するか、その場から離れるしか
方法はないのだろうと思います。


私が勤める会社では既婚の方が多くて、先日も先輩と昨年結婚された同僚の方が「旦那あるある」みたいな話をしていました。

色々な価値観がある中で、同じ方向を向いて歩く人がいるということが正直私には信じられないことに思えます。
結局私のようなヤツは、誰かと同居するのには向いてないんでしょうね。



自分が好きな漫画とか本などの感想をネットなどで見かけると実に様々だなと思います。
ある人は「駄作だ」と連呼し、ある人は「唯一の楽しみ♪」と言っていたりします。


私は色々な意見の人がいてよいし、いるのが当たり前とは思っています。

ただ自分とは考えや性質があまりにも離れている人に囲まれていたりすると、「居場所がないな」って思ったり、「自分の考えがダメなんだ……」って落ち込んだりすることもあるなと思ったりします。

かといって同じような性質の人とばかりで過ごしていると、考えが発展していかないという側面もあるわけで。
なかなか難しいところですね。

人それぞれの感覚を頼りに、皆自分の居場所を見つけているのかもしれません。



今日図書館に行ったら、以前私が当ブログで紹介した本が、返却された本が置いてある棚にありました。

私のへなちょこ記事を読んで借りたわけではあるまいが、勝手に嬉しくなり、読んだ方が「ためになったな」と思っていればよいなと思いました。

父親の暴力を止めるには

今年2018年は、私にとって色々と昔を思い出す年であったりします。

大学を卒業してから10年。
両親が離婚してから20年。

最近ふとそのことに気づいて、「もうそんなに経つのか……。」
と、時の流れの早さを感じたりします。


年末年始に風邪を引きまして、それ自体の症状は落ち着いてきているのですが、体の疲れがずっと抜けず、いつも仕事終わりや休みの日は「ぐったり」してることが多い今日この頃……。

正直ブログも続けられそうにないや……、と思ったりしてます。



最近その「今年はあれから何年ーー」を思い出している時に、気になる事件があったので記事にしようと思いました。


私の育った家庭は、父親が酒を飲んでは(飲んでない時でも)母親に対して怒鳴ったり殴ったりが毎日のようにあり、毎日が戦場で修羅場でした。

ニュースで酒に酔った父親が、家族に暴力だの文句だのを浴びせて、結果それを止めに入った息子が父親を殺してしまったという事件が伝えられていました。

私にも思うところがあり、どうすればこのような事件が起きなくて済むのか考えたりしてました。


私の家の場合、私が生まれた時には既に家庭は崩壊していて、いつも家は心休まらない場所でした。

私の父親のような人は、怒るきっかけは何でもいいのだと思います。
些細なことに目をつけて、それを怒鳴りつけることで日頃のストレスを発散するだけです。

言われる方は何がきっかけになるか分からんもんだから、いつもびくびくして縮こまっていなければなりません。


母は家を出るしか生きる道はないと思っていました。

それまで父親はほぼ子育てに関与してませんでしたが、母一人で働きながら子供の面倒を見なくてはならないので、ある程度子供が大きくなって放っておいても何とかなるような年まで、と暴力に耐えてました。


それで私が中学に入った年に調停離婚しました。

私達の居場所が分からないようにしたはずなのに、新住所に父親から手紙が来たときは、一気に血の気が引きました。
今よりも市区町村の個人情報の管理は厳しくなかったのだと思います。
「子供の養育費を払いたい」とか何とか言えば見せてもらえたんだと思いますが、こちらとしては「DV親父に何で住所を教えるねん!」と、憤っておりました。


それからの生活はお金もないし、精神面でも色々と苦労しましたが、あの場に留まり続けるよりは家を出た方が本当に良かったと思っております。



最近では両親の喧嘩は心理的虐待との見方もされるようになってはきましたが、それに対する対応策というのは正直難しいところがあると思います。

今回の事件は、父親の状態が危ないと思ったら警察を呼ぶのが一番よかったのかもしれませんが、とっさにそこまで考えられるかというと、疑問であったりします。


私の場合、「怖い」と「何とかしないと」との間でいつも葛藤してましたし、幸い父親が子供達に手を上げなかったから私が母親の盾になれた訳で、これが私もぶん殴られたり刃物を向けられたりしていたら、ここで「はてなブログ」を書いていなかったかもしれません。


当時の私は、第三者に頼るところがなく、「もう自分達で何とかするしかない」と思っておりました。
こういう状況の時に相談出来る窓口が広く知られていれば、結末は違っていたかもしれないですね。

仕事だけで人生終わりたくない

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 新年明けましておめでとうございます。

 

仕事納めの翌日から、風邪なのか咳が止まらず、微熱が続いている状態です。

 

寝ぼけた頭で窓を拭いたり、煮物を作ったりしておりました。

年末に記事を書こうと思っておりましたが、間に合いませんでした……。(~_~;)

 

 

2017年、当ブログは2年目に突入しました。

1年前の2016年の年末は私は無職で、来年もどうなるかも分からず、ブログもただの独り言のようで、かなり落ち込んでいたような気がします。

⬇昨年末の記事

tokio.hatenadiary.jp

 

年が明けて2017年の2月に再就職し、それから毎日時間に追われ、振り返る余裕もなく1年が過ぎてしまったな、という感じです。

 

色んな意味で余裕がなくて、ブログも何度も辞めようかと思っておりました。

 

そんな私のよれよれブログに来てくださったり、お星をくださったり、コメントをくださった方、読者になってくださった方、一年間本当にありがとうございました。m(_ _)m

 

 

今年は早いこと平成も30年ですね。

 

平成が近年中に終わりを迎えることを知ってから、平成について振り返る機会が増えました。

私は30代前半なので、自分が生きてきた人生を振り返ることにも繋がっていたりします。

 

2017年中にそういう記事を書くつもりでしたが、新年になってしまいました……。

(~_~;)(~_~;)(~_~;)

 

私が購読している新聞でも、平成を振り返って分析し、次の年代に繋げるような記事が載っていたりします。

 

日本の課題は山積みですが、そんな時代でも自分が生きていく術を考え、色々と試行錯誤していかなければならないなと思います。 

 

 

仕事は……。

 

続けられるのか正直分かりませんが、自分が今出来ることをやる、という意味でやれるまでやっていこうと思います。

 

今年はしばらく描けてない絵を描いたり、写真撮りに出かけられたらいいなと思います。

 

今年もこのへんてこりんなブログが続いていたら、宜しくお願いいたします。

 

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2018年最初の食事。(笑)

正直に生きることの難しさ

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ここ最近、ブログの記事が書けませんでした。

時間がなかったというのが主な理由ですが、正直なところ気分の落ち込みが激しくて、何事にもやる気が出なくなっていました。


仕事が忙しくて疲れ気味だったのかもしれませんが、何か大きな原因があったというより、自分の性格がネガティブな情報に反応しやすいということにあるのかもしれません。


相手によって態度がかなり違っていたり、陰で自分と合わない人の悪口ばかり言っている人がいるのを見ていると、一体どれくらいの人が他人に対して誠実に接しているのかが疑わしく感じられたりしました。



少し前に神奈川県座間市である事件がありましたね。

事件が事件なだけに、被害者の方の実名と顔写真を公開するのはいかがなものかと思っていましたが、名前と顔写真を見たら、この世に生きていた存在が一人、また一人といなくなったのだ、という実感が現れてきました。


今回の事件で考えさせられた、というよりショックだったのは、「心を偽っていた」ことかと思います。

自分の実名とか年齢とか、その他もろもろを明かしても明かさなくてもよいのです。
問題は、犯人が相手のことを理解しようとしているようなふうを装って相手に近づき、ただ自分の欲望を叶えただけというところです。


現実の世界だって皆が表の顔と裏の顔を持ってます。
相手に話したことの全てが本心とは限りません。

だから駆け引きとか、嘘やごまかしなどばかりして疲れるのだと思います。


私はあほたれだし、面倒くさがりなので、駆け引きばかりだと疲れるのにと思いますが、きっと自分にも少なからずそういう面はあり、人間である限り避けて通れない道なんだろうと思います。



少し前に美術館に行くことがありましたが、そこで絵を近くで見ていたカップルの男性の方が、

「こういう絵を描くなんて普通じゃないよね。頭がちょっとおかしいというか。」

みたいなことを彼女に言っていました。


「彼が「普通じゃない」とか言う絵を見に来てる私は何なんねん(@_@)」

とか思ったりしました。



彼の感想は彼なりの「正直な感想」であり、たまたまそばにいた私が「むむむ」と思っただけで、彼に同意する人もいるかもしれません。

冒頭に書いた態度に裏表がある人も、陰で悪口ばかり言っている人も、偽りのない姿といえばそう言えるのかもしれません。



「正直が一番」ということは言われてますが、それは状況によってどうにでも捉えられる複雑な話だと思います。


何でもかんでも私のように「裏の面」ばかりを見ていると、
「みんな嘘つきー!ばかー!」
っと、自暴自棄になってしまいます。


だから時にはそういうものから解放されて、素直に自分と向き合う場所が必要なんだと思います。

可能ならば一つだけでなく、絵でも小説などでも何でもよいので、心の拠り所をいくつも持っていると、心の危機が生じた時に乗り越えられる気がします。


今年も残り2週間弱となってしまいました。
自分なりにやれることを少しずつやっていこうかと思います。

取り戻せない時間

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先日、母の誕生日祝いで外食しました。

だいたい誕生日祝いは、何か欲しいものがあるか聞いて買うのですが、たまには食事でもよいかなと私の方から提案しました。


記念日だし、景色のよさそうなところがよいなということで場所はすぐに決まったのですが、お店はグルメサイトとか眺めててもイメージが湧かず頭痛がしてきたので(笑)、取りあえず行ってから探すことになりました。


当初ランチをする予定だったのですが、家を出るのがお昼頃でランチタイムに間に合わず(起きられなかった……(~_~;))、結局ディナータイムに食事しました。


確認しなかった私が悪いんですが、ゆっくり食事をしようと思っていたのに、ディナータイムはバイキング形式(今はビュッフェって言うんだっけ……)になることに気づかず、正直お祝いムードがすっ飛んでしまいました。



味は美味しかったです。

ただ、以前よりだいぶ食べれなくなってしまったらしく、最後の締めにデザートをとケーキを全種類連れてきたら見事に撃沈しました。(@_@)

最後はお皿に乗った大好きなチョコレートケーキと、外の景色を交互に見つめていました。


落ち着かなかったのはバイキング(ビュッフェ……)形式だったからというだけでなく、子供がせわしなく走り回ってた、からだと思います。
何度もお尻から振動が伝わってきて、居心地がよくなかったなと……。


お店を出て、食べ過ぎで動けず外にあるソファーで伸びていると、その場にいた子供という子供はみな走り回っていました。

その場にいた親御さんは、きっと私ぐらいの年齢なんだと思います。



親の子供に対する接し方に「正解」なんてないけれど、小さいうちの親からの影響って意外と生きている間ずっと続くものだなと実感したりします。



私の家は早々に崩壊してたので、食事に連れてってもらえる子供が羨ましいなんて思ったりします。

うちの場合、数えるぐらいは外食に行ったことはあっても、大抵父親がキレるので、あんまり楽しかった記憶はなかったりします。


ホントは家族でもっと出かけたかったな。
そういう思いはずっと消えない。

仮に何かの手違いで新しい家庭を築くことになって、「それ」を再現しようとしても、それは自分が欲してたものとは違う気がする。


今子育てをしている方は、自分が出来る限りでよいので、子供にしてあげられることはしてあげるとよいだろうと思いました。

打ち上げ花火、夏に見るか秋に見るか

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 少し前になりますが、今月に開催された某花火大会に行きました。


花火大会はたいてい夏にやることが多いイメージですが、秋の方が涼しいし虫刺されの心配が少ないので(笑)、私は安心して見ていられます。



当日は雨が降っていて中止になるのでは、と半ば諦めモードでした。


大会のホームページをちらちら見てたら、どうやらやるらしく、「花火は濡れても大丈夫なのか?」と思いながら電車に乗って現地に向かいました。


大会には去年も行きましたが、今年は雨だから人は少ないだろうと思っておりましたが、駅から吐き出される人、人、人の群れ……。あれれ。


 

 去年はわりと川のそばまで入れたので、花火を遮るものが少なくて見られたのですが、今年はロープが張られていて、見るスペースが狭くなっていました。


幸い小雨ぐらいだったので、カメラにタオルを乗せながらパシャパシャ写真を撮ってました。



写真を撮るのが好きな私が毎回思うのは、写真も撮りたいけど、撮ることに夢中になっていると現物をちゃんと見てない気がしてもったいないなという葛藤。


でも「記憶」は色褪せていくものだから、「記録」で補いたいと思ってしまいます。



毎日ツラいことが続いていても、一瞬の感動と向き合ってる時は、全てを忘れられる気がします。

 去年もそんなことを考えながら花火を見ておりました。

 

去年の記事がこれ。

(今文章見返すと恥ずかしいですが、写真が今年のよりは鮮明かな?)

tokio.hatenadiary.jp



何か煮詰まってきた時は、こうして写真を撮ってると気が楽になります。


調べてみると結構秋に花火大会やってるようなのですが、今月は週末を2回も台風が襲ってきて中止になるところも出てしまっているみたいですね……。

非常に残念ですね。(~_~;)

 

人間の価値

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私は現在、フルタイムで一週間の半分以上は働いております。

生活するための労働とはいえ、この働いている時間を他の活動に充てられたらどんなにいいだろうか、と常々思っております。


以前TVの某番組で、駅にいる人を捕まえて、(仕事があるなら会社に許可を取って休ませて、)その人がやりたいと思っていたことを一日させるーーーー
といったものがやっておりました。

声をかけられた人は、急に会社を休めと言われて戸惑いますが、「この機会に……」と企画に乗っかってくれる方もいます。


「行きたいと思っていたのに行けなかった場所」に行ったり、「やりたいと思っていてなかなか出来なかったこと」が出来る。
そうして過ごした一日はとても充実していて、参加された方のその表情も初めと比較すると、とても満たされたように見えました。



こんなふうにして毎日を過ごせたら、幸せな人生だなと思います。

人の人生に限りがあるからこそ、この長くも短い時間を大切にしたいと思っている人が多いはずなのに。


それなのに現実は…………。


この番組内でも、企画に参加したい気持ちはあっても、「時間が取れない」、「休めない」という方が多かったように感じました。



例えば仮に、皆がお金がなくても生活していける状態で、「生活のために働く」必要がなく、やりたいことで好きに一日を過ごせるようになったら、世の中どうなるだろうか。


私は取りあえず国内で行きたいところがいくつかあるので、まず電車に乗ってーーーーー





ん?

皆が好きに生きるようになった時、電車は動いているのかしら?
(今電車の運転手をされてる方は、「仕事だから」してるのか、「好きだから」しているのか、それとも両方?)


電車が動かなければ徒歩か自転車 (車を持っている方なら車)で移動することになるわけで。



で、行きたい場所に何らかの手段で向かったとして「あー疲れたし何か食べたいな」と思ってお店を探すと……。

はて、コンビニや飲食店はやってるのかしら?
(同じく、今コンビニや飲食店で働いている方は、「仕事だから」してるのか、「好きだから」しているのか、それとも両方?)


もしどこのお店もやっていなかったら、念のため持参したおにぎりを食べる私。
買ったやつではなく、朝早く起きて自分でにぎにぎしたやつ。



なんてね。


そこまで極端なことにはならないだろうけど、社会を維持していくために誰かがやらなければいけないことが仕事というモンなのだろうね。

私はやりたいことをするために、自分の限られた人生を使って、自分の出来ることをして、それをお金に替えているだけのこと。



「命は皆大切」
っていうけれど、本当かしら?

「人生の価値も皆平等」
って私は思いたいけど、現実はどうかしら?


同じ時間働いて、同じような仕事をしている人でも、それに支払われる対価は平等ではないかもしれない。
同じように人生の時間を提供していることには変わりないのに。



人間の価値は、どれだけ世の中で「有益なもの」を生み出せるか、で決まってしまう傾向にある気がします。
「有益なもの」を多く生み出させる=「地位や名誉がある、高収入」といった目に見える分かりやすい指標で語られてしまうのかもしれません。


私の今の収入は生活していくのに精一杯な感じです。
私の場合、やれることが少ないから低収入なのかもしれません。


でも何もない私でも、ブログを書いたり、絵をかいたりは出来ます。

それが価値のあることかと言えば怪しいですが、何が人のためになるか分からないけれど、日々の中で、考えたり感じたりしたことを形にして、常に世の中に与え続けることが、その人の人生の価値になっていくのではないかなーと思います。

それはボランティアや子育てといった、お金がもらえるような活動でなくても、自ら考え、自ら動き、自ら与え続けることが大事ではないかと、私は思うのです。



これからの世の中は、私が先にヘンな例で出した電車の運転や、飲食店の営業も人工知能で回されていくのかもしれません。
そうなれば仕事に充てていた時間が減って、その分自分がやりたかった活動に充てることが出来るようになるかもしれません。


たとえそのような世の中になったとしても、常に世の中に価値を生み出すという姿勢は維持していきたい、と思います。