夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

人工知能は感情を持つようになるか

先日『アンドロイドレディのキスは甘いのか』(黒川伊保子著,2017,河出書房新社)という本を図書館で借りて読みました。

タイトルを見て少しその場で固まりましたが(笑)、人工知能の話とか関心があったのと、ぱらっとめくったら読みやすそうだったので借りてみました。



内容の大筋は、

人工知能が人間を越える日が来るのか」


という問いに対して、タイトルから察しがつく通り「アンドロイドは感情を持ちうるか」という観点から著者の意見が述べられておりました。


計算や素早く情報を処理する能力などにおいては人間は人工知能には勝てません。
しかし、「人工知能には感情は持てない」が故に人工知能は人間を越えられないと著者は述べておりました。



人工知能を人間らしく振る舞うようにさせるとしたら、人間の行動パターンをいくつも覚えさせます。
記憶した情報を元に状況に応じて、「適切な」対応を取るようにします。
しかしそこには何の感情の働きもありません。


「寂しい」と話かければ、「どうしたの?」と言ってくれるかもしれません。

人間であれば、その人が大切で何とかしてあげたいからいうのかもしれませんが、機械はただ「寂しい」というワードに対して「適切な」言葉を引き出しているに過ぎないというわけです。




誰かのブログを読んでいる方だったらうなずけるだろうという例が本書にはありました。


このワタクシのブログ、人工知能が書いてるんですよ。
ということだったらどうでしょうか。

私の今まで書いたブログの記事の文体とか、写真や絵の載せ方を記憶させておいて、あるキーワードを毎回与えて自動更新にしておくという。


このブログは風が吹けばどこかに吹き飛んでしまうくらい「うっすーい」内容の「しょーもない」ブログですが、少なくとも「うっすーい」「しょーもない」ヤツが書いているということは分かるでしょう。

ただ実際、私がスマートフォンを片手に書き書きしてるかは読んでくれている方には分からんのです。



小説や漫画でもよいのですが、作品を通じて読者は作者の人間性を感じとるもんです。
それによって作品や作者自身に惚れ込んだりするわけです。

それが全部「人工知能」が書いてたりしたら、モロがっかりしますよね。
「何だ全部作りもんやん!!」
って発狂してしまうかもしれません。(笑)


安心してください。(私が)書いてますよ。
(って古いな)




もしアンドロイドが感情を持ったら人間には勝ち目がなくなるんでしょうか。
ハンサムで気配りが出来たり、綺麗でナイスバディーなアンドロイドが出てきたら、人は色んな意味で「わずらわしくない」アンドロイドとの人生を選択するのでしょうか。

まぁ、そういうアンドロイドが開発されたとしても、その頃には私は生きておらんだろうので、その点はあまり心配はいらんかねー。(^_^;)

それに、より人間に近づけるためには「人間とはこういうものだ」という定義が必要なわけで、そんなことが簡単に出来れば哲学や心理学やあらゆる学問が要らなくなってしまいますねん。




私は「アンドロイドが感情を持ってうんぬん」という話が結構好きです。

ただ現実の人間は完璧でないところがあって、時に予想もつかないことをしたり言ったりします。
私は器用そうな人より不器用そうな人の方が好きですが、やはり不器用な人の方が人間らしいからかもしれませぬ。



どんな人であろうと、後にも先にも同じ人は存在しません。
鋼の錬金術師』でエルリック兄弟が体を失っても亡くなった母親を作り得なかったように、「人間」を作ろうとしてはいけないのかもしれません。

人工知能が感情を持つのはフィクションの世界だけに留めて、人間はたった一つの人生を喜怒哀楽を経験しながら生き抜くのが一番かと思います。

社会人一ヶ月目で仕事を辞めた時のはなし

今日は通勤途中の駅で新社会人とおぼしき人を多く見かけた。


私が働き始めたのは10年ぐらい前の話だ。
苦しかった就職活動を突破して、やっと決めた職場であれば、皆何年か働く心づもりでいるはずだ。

初任給とやらが出れば、親に何か形に残るものとかも贈れるだろう。
今までとはがらりと環境も変わるけど、何とか頑張っていかないと。



そんな思いに反して、私は新卒で働き始めた会社を一ヶ月で辞めた。

初日から無理だと思った。
正確に言うと初日前から無理だと思った。


入社式の前日の3月末日に呼ばれて、何をするのかも事前にあまり知らされておらず、「顔合わせぐらいだろう」と思っていた。
確かに軽い食事会のようなものだったので、終わったら解散になると思っていた。


それが職場に連れていかれ、仕事を命じられた。
帰宅したのは10時頃だったろうか。

入社式も今となっては何をしたのかは覚えていない。
ただ多忙な職場だったので、仕事が怒涛のように押し寄せてきて、ついていくので精一杯だった。



職場で急いでいたらこけて、足をおもいっきり捻挫した。
痛くて床に寝た状態で動けずにいても、同僚は横を通りすぎていくだけで、全く声もかけられなかった。
思わず涙が溢れてきた。



「こんな目にあうなんて私悪いことしたのかな。」


賃金と引き換えに奴隷になったような気がした。

毎日表情も失われ、休みはただ死人のように寝てるだけ。
同期入社の人は私のようにはなっていなかったから、私が社会人失格なのだと思った。



毎日遅くに帰っているのに、毎日のように人身事故で電車が止まって帰りがもっと遅くなる。

もう限界だと思った。



会社に電話して「辞めたい」と言った。
そうしたら、
「まだ入社してたたないのに辞められるわけないでしょ?」
と責められた。


何回も仕事中に呼び出されては、「もう無理です」と告げて辞めることになった。

交通費も定期代は3ヶ月分を立て替えで購入するように言われていて、他支店に出向いた時の支払われていない交通費も支払われなかったため経済的に苦しかった。

それでもあのまま続けてたら、今こうして生きてなかったかもしれない。



辞めた後半年ぐらい転職活動をした。
正直職歴にもならない職歴では相手にしてくれるところは少なかった。

それでも自分が正しいと信じていた「社会人として当たり前」みたいなものは、会社によって色々違う点もあると就職活動をしてみて分かった。



今日駅を歩いていたら、「そんな時代もあったね」と話している人がいて、中島みゆきさんの『時代』が頭を流れていた。


今の日本に満足している人はどのくらいいるのだろう。

人の性質なんて色々だから、もっと多様な生き方があってしかるべきなのに、「規定のコース」を外れたら不利な状況になってますます生きづらくなる人もいる気がする。

別に皆がゴージャスな生活を望んでる訳ではないと思う。
衣食住事足りて、たまに自分にささやかな楽しいご褒美をするような生活でいいと思う。



それなのに、それすらままならない生活をしている人もこの世にはいるだろう。

今の自分の置かれている状況が辛い人も、未来を信じて生きられることを祈っている。

『おおかみこどもの雨と雪』の主人公は誰だろう

先日TVでやっておりました『おおかみこどもの雨と雪』を録画して見ました。

何度かTVでやってる他の細田監督作品が好きで、この『おおかみ~』も過去に録画したこともありますが、そのまんま放置していて今回初めて見ました。


ざっくりと把握していたストーリーは、「母一人子二人で奮闘する」ぐらいなもんでした。
ただタイトルから察するに、子供の方がメインなのだろうと思っておりました。


見終わった感想はというと。



「あれっ、主人公は誰なんだろう…………。」


というのが正直なところです。


監督の描きたかったところが子育てだとしたら、もちろん母親の花が主人公なはずです。

ただ物語はおおかみと人間の血をひく「おおかみこどもがいかに生きていくか」というテーマもあるので、だとしたら子供が主人公なはずです。


何だろう。
表現力不足で上手く言えないのだけど、「おおかみこどもを育てる母親目線」と、「自らがおおかみこどもである子供目線」は両方入れてしまうと「誰が主軸」なのか分からなくなるのではーと思ってしまうのです。


もし母親の花が子育てに奮闘するを主軸にするなら、何も子供が「おおかみこども」でなくても充分成立する気がします。
学生のうちに子供が出来てしまい、夫が早々に死んでしまい、農村で子育てするというだけでもかなり
ドラマチックな展開ですよね。

子供が出来るということは、それだけで人の人生を180度変えてしまうぐらいな訳です。
子育ての大変さは、おおかみであろうとなかろうと変わらんでは~と思うのです。



話を子供の雪と雨に主軸を置くなら、母親の過去の話だけでなく「おおかみおとこ」がどうやって生きてきたかというエピソードが欲しいです。

映画では花は「(彼が)生きている間に聞いておけばよかった」と言っておりますが、花自身は知らなくても、「観客」は知っておくべきだと思います。



「おおかみおとこ」はおおかみでもあり、人間でもあるという存在です。
周りに同じ境遇の人なんて当然一人もおりません。

彼がどういう環境で育ったかは不明ですが、人間の家庭に対する憧れがあるところから見ると、小さい頃から人間社会に身を置いて、周りの子供達と自分の置かれた環境の違いにずっと孤独感を感じてきたのではないでしょうか。


作中では子供達はあまり父親のことを知りたがりませんでしたが、私は子供達が大きくなるにつれて父親である「おおかみおとこ」がどうやって生きてきたか知りたくならないのかなと思います。

だって母親の花はおおかみの血を引いていないので、子供達の体の変化や自身に対する周りの態度とかを理解するのが難しいからです。



私がこの映画で一番好きだったシーンは、姉弟が自分の選ぶ道で対立して取っ組み合いをするところです。
姉弟にとって自分の境遇を理解出来るのは、お互いしかいない訳で、自分の考えに賛同させて「私(僕)の選択が正しい」と思わせたくなるのも分かります。


二人の生き方が違うのは当たり前な話です。
私は「性格を決めるのは生まれか育ちか」というテーマが結構好きですが、きょうだいはホント同じ親でも性格は色々です。

姉の雪が学校に通って、周りの子達を見て、「人間として生きたい」というエピソードは納得出来ます。恐らく彼女の父親もそうだったのかと思うので。

ただ弟の雨がおおかみとして生きる道を選ぶ動機が私には弱く感じました。
元々ひ弱で虫も苦手で、オール電化の家に住むしかないような少年が「本能に目覚めて」、生き方が変わるとは思えんのです。

彼は山奥で「師匠」に何を教わったのでしょうか。
人間として生きる道を全部捨ててまで進む道なのでしょうか。


母親と一緒に見た檻に入れられたおおかみを、雨は「寂しそう」と言ってました。
動物園で生まれ育ち、野生を知らないおおかみの寂しそうな姿は、野生の道を選んだ雨の行く末のような気がしてなりません。


人間として生きるにしても、おおかみとして生きるにしても、ずっと自分の性質と付き合っていくしかないのです。
雨は人間社会に馴染めず、野生の道を選んだのかもしれませんが、野生動物と自分の違いに葛藤する日が来るのではないかと思ってしまいます。



ハーフの方で「顔は外国人なのに英語が話せない」という話をしているのを聞いたことがあります。

どちらかの姿しか認めてもらえないとしたら、人生かなり生きづらいものになります。

全ての人にとは言いません。
自分の人間的要素も、おおかみ的要素も両方持った個人として認めてもらえる環境こそがその人の居場所かなと思います。



私の家は母子家庭でしたので、映画に共感する部分はかなりありましたが、人間とおおかみとの間でアイデンティティーの葛藤みたいなストーリーが主軸だったらドはまりしてたかもしれないですね。

一つの価値観に縛られない生き方

 

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◎はじめに

『「ひきこもり」経験の社会学』(関水徹平著、2016、左右社)という本を図書館で借りて読んだ。

「ひきこもり」というと皆はどういうイメージを持っているだろうか。

 

この本の表紙にはでかでかと数字の「3」が書かれている。

これは「ひきこもり」とされる人の中で、外に出られない人の割合が3%という、世間の「ひきこもりとは自室にこもっている」というイメージとのギャップを表している。

 

このように世間がとらえる「ひきこもり」の捉え方と、自らを「ひきこもり」とする人の捉え方は異なっている。

本書では「ひきこもり」経験をした当事者の視点と、経験のない当事者以外の視点から「ひきこもり」経験とは何かを問い直し、あるべき社会の姿について考えさせる本である。

 

 

◎当事者にとっての「ひきこもり」経験とは

「ひきこもり」状態になる人の事情はそれぞれだ。

自分が所属する学校や職場に何らかの違和感を感じたり、そこでつらい経験をして通えなくなることもある。

理由はどうであれ当事者が苦しむのは、「なぜ学校に行かないの?」「なぜ働かないの?」という世間からの問いかけと、それに対する「なぜ自分はそうできないのか?」という自分自身への二重の問いかけである。

 

本書では「ひきこもり」経験のある方のインタビューの内容が紹介され、どのようにして周りが期待するような生き方が出来ない自分と向き合ったか語られている。

他の人が出来ることが出来ない自分を責めて苦しむ中で、次第に世間が突きつける問いが正しいのかという疑問が生じ、そんな自分にでも受け入れてくれる環境があるのではと思い始める。

そのきっかけとなったのは「ひきこもり」という言葉によるものである。

 

自分のどうしようのない、どうしたらいいか分からない状態が、「ひきこもり」というワードを介して同じような悩みを抱える人やそういった方を支援しようとする人とを結び付ける。

それは書籍などのメディアの場合もあれば、同じ経験を持つ人同士の集まりである場合もある。

自らを「ひきこもり」とすることは、周囲からそれに付随する否定的なイメージとともに一括りに見られる一方で、自分は皆とは分かり合えないという孤独感が癒され、未来の自分の生き方を考えるきっかけを与えてくれる。

 

 

◎当事者以外にとっての「ひきこもり」経験とは

ここでは世間で「ひきこもり」がどのように扱われてきたかをたどっている。

当事者以外が語る「ひきこもり」問題に共通するのは、語る側が想定する正常性を基準として、それに対する「逸脱」としての位置付けである。

 

それには主に以下の文脈で語られている。(p.238)

・社会的自立を基準とする「就労」

・人並みの暮らしを基準とする「貧困」

メンタルヘルスの正常性を基準とする「精神保健」

 

「ひきこもり」が世間で知られるようになって、当初は何らかの精神疾患によるものや、「打たれ弱さ」といった性格的な部分によるものといった語られ方から、若年層の雇用環境の変化による就労や貧困問題と関連して語られるようになってきたのがうかがえる。

問題を個人の問題だけではなく、社会の問題としての見方がされるようになることは、望ましい流れではあるが、いまだに「逸脱」した状態から想定された「こうあるべき状態」に移行することが目指されているという点で、「ひきこもり」当事者がよりよく生きるための議論には至っていない。

 

 

◎「ひきこもり」の人が目指すべきところはどこか

今現在「学校に行けない」、「働けない」と苦しむ「ひきこもり」の人が目指すべきところはどこなのだろうか。

例えば働けないで苦しんでいる人が、定職に就くようになれば問題は解決したと言えるのだろうか。

 

人の価値観、考え方、生き方などについて、かくあるべきという基準を設け、その基準に同化することをよしとする考え方を「同化主義」と呼ぶならば、「ひきこもり」経験者たちの多くは、少なくとも当初は「多数派のあり方への同化主義」にとらわれている。

彼・彼女たちが葛藤を経験するのは、多数派の生き方から「逸脱」し、基準に適合できない自分を否定せざるをえないからだ。(p.357)

 

とあるように、「学校を卒業したら定職に就くべき」ということに同化しようとしてできなければ、それ以外に生きる道が閉ざされたと感じるだろう。

冒頭で紹介したように、「ひきこもり」の人の中で文字通り「自室にこもって外出しないでいる」割合は少ないということは、目的によっては外の環境とつながることが出来るということだ。

ここでは「ひきこもり」の人であっても、趣味や関心のある事に参加できるという例をあげ、どのように社会と結びついてゆけばよいか次のような考えが示されている。

 

状況的自己に関する考察は、「ひきこもり」経験者にとって、状況に参加するために自分を鍛錬しようと考える必要はないことを示唆する。必要なことは、どのような状況であれば参加できそうなのか、あるいは参加したいのかを考え、参加できそうな状況には参加してみるという試行を繰り返すことだ。そこで求められているのは、参加に踏み出せない自分自身を変えようとする努力というよりは、自分がどのような状況であれば参加したい、あるいは参加できると思えるのかを冷静に考えるー抽象的な「社会参加」についてではなく、具体的な状況への参加について考えるーことだろう。(p.278)

 

「ひきこもり」の人が、一度は外れてしまった多数派の生き方をもう一度生きる目標にするのも一つの生き方である。

しかしすべての人が皆と同じように学校に行ける、働ける状態が必ずしもゴールではないと言える。

 

社会とつながる環境は一つではないし、自分がらしく生きられる場所は、何回も試して辞めてを繰り返してやっと辿り着ける場所なのかもしれない。

 

「ひきこもり」経験とは、ごく限られた人のみに関係する話ではなく、全ての人がより良い人生を生きるために試行錯誤する過程でもある。

 

 

◎おわりに

ここではこの本のざっくりとした感想と自身の経験を述べて結びとしたい。

 

私自身に「ひきこもり」経験はないけれど、学生時代の友人にはひきこもり気味の人がいた。

友人の抱える辛さは本人にしか分からないし、何をしてあげればいいのか私には分からず遊びに誘うぐらいしかできなかったが、ただ友人が苦しくない環境が見つかればよいなと願っていた。

 

今から10年前ぐらいに私は大学で社会学を学んでいたのだが、関心があったのは同年代やそれよりすこし前の世代の就労問題だった。

以前若者を取り巻く働き方の話といえば、やりたいことをするために敢えてフリーターをするという話がよく語られていた。

それが自分が就職活動をする頃には、若者の働き方を語るうえでニートというワードが出てきた。

これまで信じられてきた卒業後は定職に就いて、「普通」の生活を送るという価値観が揺らいでいた。

若者に関して、やりたいことをするためのフリーターというイメージがあったためなのか、「働けない」人は社会の問題というより、自立できない個人の問題としての扱いがされてきた。

 

 

社会問題が問題としてあらわれてくる背景には、社会の既存の仕組みが上手くいっていない部分があると感じる。

もちろん自ら選んだ生き方として定職に就かないという選択肢もあるかと思う。

 

しかし世の中には「働きたくても働けない」、「何かしようにも何をどうすればよいかわからない」といった人もいるのだ。

この本で紹介されていた日本の福祉が立ち遅れているという現状は「ひきこもり」問題にとどまらず、日本のあらゆる問題に通じている話なのでこれからも議論されるべき話題だと思う。

現状個人の生活を成り立たせるためには自営で稼ぐか、企業に勤めることで得られる所得によるものである。

それが出来なくなった場合の生きる道が残されていないため、過労死寸前まで働く職場でも働き続ける人が出てくるのだろう。 

社会福祉が整うことで、「ひきこもり」の人を含め、すべての人が人生を何度でもやり直す基盤ができるはずなのに、現状はなかなか厳しいものである。

 

かこの支配からの卒業

今は卒業シーズンですね。
駅で花を持った学生服や袴姿の方とか見かけます。



自分の卒業の思い出といえば……。


~小学校~
小学6年の時に飼育委員だったので、飼ってたチャボとウサギとアルバムに載せる写真を撮ったのですが、私はその頃風邪ひいて休んでたので、うさちゃんと写真を撮るためによれよれと学校に行った記憶があります。


~中学校~
中学は最初の頃はいじめがあったのでホント辛かったのですが、クラス替えしてから少し話せる人が男女ともいたのが大きかったかなと思います。

卒業アルバムの空いてるところとかに友人や先生方からメッセージを書いてもらったりして、

「あっ、こんなふうに思ってくれてたんだ……。」

とじ~んとくることはありました。


~高校~
私は高校卒業した時にはまだ進路が決まってませんでした。
大学に行く方向でしたが、どこも決まっておらず「卒業」という気分に全然なれませんでしたね。
まだ終わってないよ!という感じで……。

当時の担任の先生には迷惑おかけしました。
現在もずっとその先生だけは年賀状を下さるのですが、毎年「こんな仕事もままならない今を過ごしてて申し訳ない…」って気分になります。


~大学~
一番親しかった友人が単位を落としてしまい、一緒に卒業出来なかったのがホント寂しかったです。

卒業して働き始めることを思うと、辛くて絶望的な気分になってましたね。



とまぁ、覚えてる感じで。(^_^;)



学生時代は今みたいな人生を送るとは思ってませんでしたね。

働くようになってから仕事の夢ばっかみるようになりました。
日中も職場で責められて、夢の中でも責められて、ホント地獄ですよ。

ついこの前まで就職活動してた時も寝ながら泣いてたらしく、母から「何か泣いてたよ。」と言われて驚く始末。






先週の休みは部屋の片付けをしとりました。

友人からもらったお土産のキーホルダーとかは懐かしく持っております。
色んなところをほじくると昔集めてたシールやら消しゴムやらいっぱい出てきて、片付けから何度か脱線してましたね…。(*_*)

前に働いていた会社からもらった書類とか見ると、
「何でこんなに苦しめられてたんだろう!」
という気分になりました。



もう今は「卒業」を経験することはなくなりましたが、物事には必ず始まりと終わりがあって、どんなに楽しいことも、辛いことも、長くは続かないもんだと感じるようになりました。



○片付けの脱線で発掘された品々

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昔よく親に買ってもらったアイスについてたシールです。懐かしや。



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こんなんばっか集めてましたね。


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分解っ!
もはや何だかわからん。(笑)

おとなが育つ条件

最近『おとなが育つ条件 発達心理学から考える』という本を読みました。

大学時代に「生涯発達」について学んだことがありますが、こういう内容は生きる上で結構ためになる話かと思います。

「発達」というと子供に関しての話かと思われますが、「生涯発達」とは人は一生を通じて発達する存在として捉える見方です。



今の日本を見ると、寿命の伸びや、雇用環境の変化など、人生選択に迷う状況が色々生じてきています。

私は上記の本を読んで、「男は仕事、女は家庭」という価値観が人生を生きづらくさせているにも関わらず、いまだに世に強く根付いていると改めて感じました。


昨今話題になっている保育園不足の問題も、女性が仕事と子育てを両立する生き方に追い付いていないと言えますし、引きこもりの人に男性が多いのも、男性の生き方が「男は仕事」という見方をされてることに対する抵抗感からきているのではと思うのです。

世に根付いている価値観が、人生の選択肢を狭め、あらゆる環境で成長する機会を奪っているとしたらとんでもないことです。




私は大学に入った辺りから人生迷走し出して、新卒での就職も上手くいかず、その後も何度か転職しました。
世の中では一つの会社に居続けることがよいとされる考えもまだありますが、私は一つの道を選んだら
ずっとその道を歩まなければいけないとは思わんです。

悩んで、選んで、失敗してを繰り返してきましたが、その時その時真剣に考えて選んだ道の結果でもあります。
一発で自分に適した道を選べる人がいたら会ってみたいものです。



今人生に迷い動けずに苦しんでる人も、自分の人生を真剣に考えるからこそ一歩踏み出せずにいるのかもしれません。


私は、生きている限りはいくらでも人は伸びていけると思います。
私のように不器用な人間は、他の人からしたら全く進歩していないように見えるのかもしれませんが、出来ることから少しずつやっていけば、何かしら得られるはずです。


人生の選択は難しくて辛いものですが、働くか否かや、結婚するかしないかなど、自分がしたいように決めるべきです。
周りの価値観に囚われず、自分に与えられた時間を試行錯誤しながら使っていけばよいのです。


自分の選ぶ道の全ては「自己鍛練の場」として、自分が成長出来る機会として素直に受け入れていけばよいと思っている今日この頃です。




今の仕事を始めて一ヶ月たちました。

以前より収入もかつかつで、仕事も初めてのことに神経使いまくりで帰ってきたら疲れて寝てしまう毎日です。
ですが私の仕事具合を心配してくれる先輩がおり、世の中にはそういう方もおられるのかと驚きながら、何とか踏ん張っております。

自分は自分の人生を生きるしかない

職場で仕事の引き継ぎをしております。

引き継ぎをしている退職される方は、周りにも気配りが出来て性格も親しみやすく、同僚の方が彼女を評価しているのが身近にいても感じられます。


最近自分の気が滅入って、しょぼくれた記事ばかり書いていたのも、彼女と自分を比較して自信喪失していたからかもしれませぬ。



冷静に考えると、生まれも育ちも違う人と能力の比較をしてもどうしようもないのだと思います。

機械で決められた通り作られている、世に並ぶパッケージされた商品であれば比較されてしかるべきですが、人間持ってきた能力はそれぞれなので、比較しようもありません。


それなのに比較してしまうのは、周りの評価によるところが大きいのだろうと思います。
周りが自分を「駄目なヤツ」と評価したら、自分自身も「自分は駄目なヤツ」と感じるようになります。


人間どのようになるのが「正解」という明確な完成図がないから、今の自分でいいのか分からなくなって不安になったり、将来が見えずに苦しんだりするもんです。
結局は、自分の意志で決めた行動の積み重ねが「自分」というものを作っていくんですけどね。



私は今30代前半なのですが、20代は仕事に悩んで苦しんでるだけで終わってしまった感があります。

もう少し何か得意分野を作るとか、大恋愛をしてみるとか(笑)、そういう「生き生きした感じ」がなかったなと……。

そんなんなので、これから何か一つでも続けて腕を磨いていけるものが欲しいなと漠然と考えては、「それはなんぞや?」と迷走しております。

20代に特に何も出来なかったのは仕事が安定してなかったのもありますが、とにかく「金銭面で余裕が全くなかった」というのもあります。

やはり何だかんだいっても、お金がないと出来ることが限られてきますし、やりたいことがたくさん出来るようになれば人生の選択肢ももっと広まりますからね。


自分が楽しいと感じることは、「責任」とか「利益」とか考えずに済むから楽しいのであって、仕事は楽しさと別物であっても仕方ないのでしょうね……。