叔母の死が教えてくれたこと
毎年6月の今ぐらいになると、亡くなった叔母のことを思い出す。
私の母の妹である叔母は、2011年の6月にくも膜下出血で倒れて、そのまま帰らぬ人となった。
私が最後に会ったのはそれから3年前ぐらいの祖父の葬儀の時だった。
久しぶりに葬儀で会った時、叔母がかなり疲れきってやつれていた様子だった。
私が記憶していた叔母はかわいらしい雰囲気の人だったので、あまりにも変わりすぎた姿に驚いてしまった。
母から叔母が生活のために仕事を2つかけ持ちしてると聞いていたので、相当詰まった生活をしてるのだなと思った。
叔母という人は母がいうには、昔から気が強くて譲らなくて、かなり見栄っ張りなところがあったらしい。
その頑固なところが私に似ていると言い、顔以外の体形も私に似ているという。
昔は似てると言われても、「え~?」とか、「ふ~ん」ぐらいにしか思っていなかった。
でも亡くなる直前から亡くなった今まで、ふとした瞬間に叔母のことが頭によぎるのだ。
「私と似てるな」
亡くなってもう6年たつのか。
それが早いのか遅いのか分からない。
叔母が倒れたと連絡してきたのは旦那さんだった。
私はやっと仕事が終わった金曜の夜で、くたびれて爆睡していた。
深夜3時頃、家に電話があった。
疲れすぎて起きられなくて、後から留守電を聞いたら一気に血の気が引いた。
私の母と叔母は、些細なすれ違いで疎遠になっていた。
事情がどうであろうと、こちらから歩み寄って、生きているうちに会っておくべきだと母には常々言っていた。
病院に駆けつけると、叔母は集中治療室で管に繋がれていた。
こんな形で再会することになるとは夢にも思っていなかった。
そこで叔母の回復は絶望的で、あとはいつ死ぬかを待つだけだと知らされた。
よく医療もののドラマでみる心電図が、上がったり下がったりして、いつ「その時」がくるのか落ち着かなくて、生きた心地がしなかった。
とりあえずその日は待合室で待つことになった。
久しぶりに会う旦那さんは相変わらず気さくな方だったけど、白髪も増えてかなり年をとったなという印象だった。
でもそれ以上に驚いたのは……。
旦那さんと、私のいとこである娘、息子との間に会話らしい会話がなかったのである。
どこか他人のようでよそよそしく、昔の私の家を彷彿させるものがあった。
私が小学生の頃、旦那さんが車を運転して、いとこ達と海に行ったり、川でバーベキューをしたのを覚えている。
私の父親はそういうタイプではなかったので、こういう父親だったらよかったのにと思っていた。
家庭崩壊している私にとって、叔母の家庭は当時の私の理想でもあって、その状態がずっと続いていると信じている部分があったのに。
それなのに「これ」か……。
夜も9時ぐらいになったので、その日は帰ることになった。
何かあったときはすぐに連絡をくれるように伝えて。
その翌日いとこから連絡がきた。
「母が亡くなりました。」
持って一週間と言われていたのに、あまりにもあっけなすぎた。
母は短い時間で失われた時間を取り戻そうとしている感じだった。
でもこうなってしまった以上、何もかもが手遅れだった。
葬儀は3日後に行われた。
私は幼い頃に誰かの葬儀(母いわく私の父親の父親)に出席して遺骨を挟んだ記憶があるが、自分の意識があるうちでまともに「死」と向き合ったのがこの時が初めてだった。
少し前まで元気にしていた人間が倒れて、一週間足らずでこんな骨の塊になってしまうことが、現実としてなかなか受け入れられなかった。
こうなる前に何か出来たのではないか。
叔母の死を思う度にいつもこう思ってしまう。
「いつ死んでもいい」
と言っていた叔母が、文字通りあっけなくあの世に逝ってしまったのである。
似ているからこそよく分かるのである。
私の祖母は母がいうには、仕事ばかりしていて、子育てにウエイトを置いている人ではなかったらしい。
何かを聞いても「分からない」で済まされ、進路で悩んでも娘のために何とかしてやろうとするタイプではなかったらしい。
結果私の母はめっちゃ寂しがりに育ち、母の妹は家に寄り付かない自己犠牲の強い人に育ったと思う。
幼少期に「親に愛されてない」と思って育つと、その後にどんな経験をしても取り返しがつかないのである。
私は幼少期に、要領悪いは頑固だはでよく家の外に放り出されていた。
今は年をとって親の状況を理解する部分はあるけど、「自分は必要とされてない」感はずっと消えない。
叔母の家を見ていて、「何のために家族一緒にいたのだろう」と思ってしまう。
あんなやつれた叔母を見ていたならば、周りにいる家族に出来ることはもっとあったのではないか。
叔母も「人には頼れない」、「私が何とかしなければ」という自己犠牲的なところがこういう結果を招いたのではないか。
自分がしてもらってこなかった分、子供達に苦労させたくないと思う気持ちは痛いほど分かるが、もう少し回りに「助けて」と言えればよかったのに。
死ぬ人は生きる人に何かを教えていると聞く。
私は、自分の至らない性格を携えて何年も生きるのが辛いし、30年も生きれば上等だと思っていた部分はある。
自分が死んでも誰も困らないし、何も変わらない。
生きていても死んでいても誰も気にしちゃいない。
自分が死んだ後のことなんてどうでもいい。
それは今でも変わらない。
だけど……。
叔母が倒れたとき、叔母の姉が、母が、娘が、息子が、傍らですがって泣いていた。
自分が叔母に似ているから、自己破壊的に生きて自分が死んだらきっとこうなるのかもしれないと思った。
自分の死を叔母の死に見たような気がしたのである。
まだ生きて、やれることはあるはずだ。
人生に挫折した時や辛いときはこの時のことをよく思い出す。
生きてると辛いことの方が多かったりするし、特に不器用な人は毎日生きづらい思いをしているのではないかと思う。
そういう人がいるということを心の支えにし、自分もそういう誰かの支えになれるよう頑張らねばと思う。
30代独身の私の幸せについて本気出して考えてみた
先日、一人暮らしをしている兄が家に来ました。
兄は私より2つ年上で同じく30代前半ですが、現在独身です。
兄の友人は結婚してる方が多いらしく、話題はどうしても家族の話になるらしいです。
妹の私としても、兄には結婚して欲しいと思っています。
育った家が崩壊していたワケなので、いい人を見つけて精神的に安らげる生活が送れればよいなと。
私が今働いている会社は、わりと結婚している方が
多いです。
今日もある社員の方にお子さんが生まれたそうで、「名前が何だ」話で盛り上がっておりました。
私が会社に入社した頃に、育休から復帰された方がお子さんを抱いて会社にいらしたことがありました。
私は人として欠陥だらけなので、「私には一生縁のないことだなぁ……」と常々思っているのに、急に目元が潤んでしまいました。
最近涙腺が壊れてるんですよ。きっと。
今日会社から帰ったら、私の母がスーパーで買い物してたら私の小中の同級生のお母さんに(10何年ぶりぐらい?)に会ったと聞きました。
母からその同級生の男の子が結婚したと聞きました。
あと昔私の近所に住んでて遊んだことのある女の子も結婚したと聞きました。
やっぱり30も過ぎるとそういう話ばかり耳にするようになるんですね……。
メディアでは若年層の未婚率が上がってうんぬんと聞くのに、「どこがやねん」と言いたくなります。
30代ともなると、人生の方向性をある程度固めなくてはなりません。
必ずしも結婚しなくてはいけないわけではないですし、仕事や趣味の活動などに生き甲斐を見いだしている方もたくさんおられるかと思います。
それなのに独身でいると、自分が「普通」のことも出来ない、欠陥のある人間に思えてくるから悲しいもんです。
中島みゆきさんの『誕生』ではないけど、強気で生きてると些細な寂しさにつまずく時もあるのだなと。
人生多くのものを手にしても、そうでなくても、あの世には何も持っていけないのだから、自分は他の人より何も手にしてないことを嘆いていても仕方がないのですよね。
自分にとって何が幸福かを見失わないよう、何かを手にすることよりも、何かを与えられる人生を目指していこうと思います。
映画『ちょっと今から仕事やめてくる』の感想
現在公開中の『ちょっと今から仕事やめてくる』という映画を見てきました。
映画館の人からしたら、「この映画見に来る人は仕事辞めたいんかな~」と思われてそうですね。(^_^;)
ずっと原作の方が話題になっていて気にはなっていましたが、読む前に映画の方が公開されたので見てしまいました。
というわけで原作の方は知らないので、映画の方を見た感想を載せておきます。
(まだ見てなくてネタバレは困る方は、見た後に読んでいただければ幸いです。)
率直な感想は、
「よかった。」
です。
(おいっ!)
(……ってこのパターン前もやったような……。)
最初は主人公青山が働く会社について分かるようなシーンから始まりますが、見てたら自然と涙ぼろぼろになってましたね。
就職活動が上手くいかなくて、やっと一社内定をもらって、「ここで頑張るんだ」と奮起して働き始めたものの、想像してなかった現実にことごとく希望を奪われていくという……。
企業体質が違法ではないかと思える部分があったり、結果が出なければボロクソに言われるは、残業三昧で私生活が乱れるはで生きることに疑問ばかり持ってしまう日々。
「私と一緒だ……」
と、頭で考えるよりも先に体が反応しているようで、涙が終始あふれていました。
正直もっと平静で見られると思っていたのに……。
青山の働く会社の「ブラック企業」感はやや誇張されている感じがありましたが、どうしても私が今まで働いたことのある会社とかぶる部分がありました。
今月6月から新卒の方の採用活動が本格的になるそうですね。
就職市場は「売り手」だと言われていて、大企業は相変わらず人気だとニュースで見ました。
私が大学を卒業した2008年も、リーマンショックが起きるまでは「売り手」と言われてました。
ちっとも内定をもらえなかった私にしてみれば、「でもそんなの関係ねぇ!」
の世界でしたよ。
求人数はあっても、企業が「ある程度仕上がった」学生を積極的に採用していくので、内定をいくつももらえる人とそうでない人の差が出てきたりします。
私の考えでは就職氷河期の時に採用を抑えた関係で、企業内の技術が継承されにくく、若手にいきなり高度な仕事をさせているのではないかと思うのです。
それに加えて産業構造の変化で、生き残る業界、会社というのが読めない状況で、雇う側も雇われる側も不安定な状況にあるのではないかとも思います。
こういう状況下では、働く方の仕事のミスマッチが起きやすいですし、職業キャリアが積めなかった方が就職市場から閉め出されやすくなるのではと私は危惧しております。
映画で主人公青山の自殺を阻止しようとしたヤマモトは双子の設定でした。
一方がブラック企業で働いた末に自殺をし、もう一方がバヌアツで教師をする道を選びました。
これは同じ人物が環境によって色んな生き方も可能だということの示唆なのかもしれません。
生き方を選ぶ基準は人それぞれかと思います。
私も他の多くの方が思っているように、好きなことで生計を立てられたらどんなにいいかと思います。
しかし自分が好きな道で身を立てるには、相当の資金、時間、努力が必要です。
私の場合は、仕事は生活のためと割りきって、その他の時間で好きなことをすればいいかと思ってます。
それなのに、新卒で入った会社の社訓みたいなものに、
「仕事に生き甲斐を見出だしましょう」
とありました。
合うはずがありません。
これから働く方も、今生きることに悩んでいる方も、他人が思うような「ネームバリュー」とか「安定的」とかいうキーワードにとらわれる前に、自分に合った生き方を選択して欲しいと思います。
人生を苦病まないために
フジモトマサルさんの『二週間の休暇』という本を図書館で借りてきて読んだ。
元々フジモトさんの作品は気に入っていた。
万人が入りやすそうな絵柄から入っていくと、そこには独特な世界観が広がっていて、そこが現実なのか作り物なのか分からなくなる感じがある。
この作品の読み始めも、一見ある女性の「日常の」ワンシーンと思いきや、仕事で残業している女性の「何もかも忘れて休みたい」願望を叶えた形の「異世界での」体験の話になっている。
何気なく借りた本だけど、読んだ後は「自分も無理してるんだろうな」と思った。
つい最近会社で自分の欠点をかなり指摘されて、それは「社会人」として生きていくためには必要なことだと理解はしているし、自分を客観的に見る機会にはなったと思う。
ただ、自分の中の自信とか、生きる希望というのが失われてしまっていると改めて感じた。
私が仕事をするのは生活のためである。
前職が精神的にも肉体的にも限界なところがあったので、本当は次に働くまでに少し休みたいという気持ちがかなりあった。
だけど休んでいられるほど蓄えはないし、親は病院に通院していてお金がかかるため、私が休んでいる場合でないと思った。
「生活していくため」と自分に言い聞かせて、誤魔化しながら生きていると思う。
頭では理解していても、本心のところでは常にやりきれない感じを抱えている。
最近は仕事から帰ってきたら、疲れきって無意識に寝てしまう。
私は昔から現実で嫌なことがあるとすぐに眠気が来て寝てしまうので、ある意味で異世界への逃亡と言えるかもしれない。
仕事以外にやりたいことは山ほどある。
やりたいことをして生きている人の方が、人生での充実感も違うし、色々な意味で健康的にいられる気がする。
最近では、好きなものにですらやる気が湧かないという状態が何年も続いている。
もし『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」があったら、そこに入って漫画描いたり、本を読みまくりたいと何度も思ったことか。
そうしたら少しは元気になる気がする。
ネットでフジモトさんの作品を検索してたら、彼が二年前に病気でお亡くなりになっていたと知った。
ショックだった。
人の人生なんて、長いようで短い。
やりたいことを後回しにしていると、突然自分が死ぬことになったら、動かなくなった体で絶対後悔すると思う。
私の身内には若くして亡くなった人がいるので、細々と長生きするより、自分が思ってることを一つでも叶えてから死にたいと思う。
どうしたら後悔しない人生を送れるかは分からない。
自分の気持ちに正直に向き合うと、仕事に行くのが余計に辛くなってしまう。
だけど「自分」から逃げてはいけないと思う。
私は一つのことに頭が一杯になると他のことが考えられなくなるけど、自分を生きるのは自分しかいないし、何が一番自分を「生かす」のかも知っているはずだ。
今私のように生きることに迷って辛い思いをしている人には、自分ととことん向き合い、少しでも希望を持って生きていって欲しいと思う。
腹を割って話すことの大切さ
母がメロンを買ってきてくれたのをぱっこり切って食べました。
母いわく買う時かなり固かったらしいので、しばらく寝かせてから食べようか悩み、結局食い気に負けて(笑)食べることにしました。
実際切ってみて、中身が意外と熟していて驚きました。
外からは分からないもの、開けてみないと分からないものってあるのではないかと思います。
先週職場で自分の至らないところを先輩からかなり言われて、仕事に行くのも、生きるのすらも辛いと思っておりました。
その後先輩が話す時間を取ってくださり、自分の欠点を客観的に見るとどう見えるのかについて聞いたり、お互いの思っていることなどを話し合いました。
私は不器用で一つのことで頭が一杯になると他のことが考えられなかったり、人の状況を察するのが苦手で、そういう性格がこれまでのあらゆる場面で影響を及ぼしたりしていました。
そういう姿は端からみれば「自分勝手」に映るようで、大抵の人は敢えて指摘することもなく関わりを避けるか、その態度に対して怒りをあらわにしたりします。
私の方は「何か気に障ることをしたんだろうな」と思っても、原因が分からないので、毎回自分を全否定してやり過ごしてきました。
私は自分の欠点を自覚していて、なぜそういう状況になったかを自分で語れる範囲で先輩に伝えました。
先輩からの指示も、主語が不明だったり抽象的なものは理解しづらいと話しました。
先輩に「正直こんな仕事出来ないと思わなかった」と思われても、正直に思っていることや困難な状況を伝えて、この仕事が無理ならはっきりさせるべきだと思いました。
先輩と仕事終わりに何時間か話して、先輩がこちらがどうやったら上手く仕事をやっていけるか考えようとしてくれているのが分かりました。
私は研究をしたり、ひたすら何かを作るようないわゆる「個人プレー」を得意としているところがありますが、それでも会社という「チームプレイ」で働く環境ならば、自分の価値観だけではやっていけないのだと改めて感じました。
先輩は私と仲良く、というか良好な関係で仕事を続けていきたいと考えていらしてて、言わなければいけないことは厳しくても言うべきと思っていらしたので、私も先輩からの歩み寄りに応じるべきだと思いました。
人間関係が上手くいかなくなる時とは、大抵お互いの認識のズレとか、相手に言いたいことが充分伝わっていないことによる行き違いがあるかと思います。
私は比較的曖昧な表現とかの理解が弱かったり、伝えるべきことをあまり表に出していない(自分では出してるつもり……)ようなので、より問題を抱えやすいのかと思います。
また気づかないところで何かやらかすのではないかと気が気ではありませんが、何とか生きております。
人間は複雑で、面倒で、嫌になることの方が多いです。
本心をぶつけ合えば、関係が悪化して取り返しがつかない仲になることなんて日常茶飯事ですが、相手を理解しようとして誠実に接する姿勢は保っていかねばと思っております。
心身の風邪
風邪をひきました。
喉の痛みに始まり、鼻がずるずる、咳はごほごほ、頭はずきずき、微熱に関節痛でもうたまりません。
風邪薬の箱に書いてある症状を見事に網羅しております。
幸い寝込んではおらず、会社には出社しておりました。
ただ今週は風邪よりも辛い一週間でした。
今の職場に勤めて3ヶ月になりましたが、仕事を教わっている先輩から、ひたすらダメ出しをされておりました。
私は一つのことに集中すると周りが見えない質で、私が行う全ての業務について指摘されました。
連休明けは忙しく、新しく覚える仕事も少しずつ増え、全てが上手く回らなくなってきていると感じ始めた頃でもあります。
その分周りの方に助けてもらってるところはありますし、入社数ヵ月であまり戦力になっていないのも分かってました。
だから少しずつでも、出来ることを増やして、回していかないとと思っていた矢先でした。
先輩は私の仕事具合をよく確認して下さり、私のこの不器用な質を分かって下さっていたのだと思い込んでおりました。
私もそう考えていた時点でかなり甘えがあったのかもしれません。
仕事は「素早く」、「臨機応変」にこなして当たり前。
どういうタイプの人間が仕事をして、こういう部分は得意でも、こういう部分は苦手とかは関係ない。
私は自分の欠点を痛いぐらい分かっているつもりで、それを余すことなく他人から言われると、本当に逃げ場がなくなります。
それに、先輩から言われて当然のこともあれば、矛盾を感じることもあります。
言った方は自分が正しいことを言っていて、相手がどう受け止めようと言われて当然と思っているのかもしれません。
言われた私はもう救いようのない心理状態です。
何をしていても言われたことが頭を離れず、本を読んでいても同じ文ばかり読んで頭に入らず、エレベーターに乗っても自分の降りる階を押し忘れて、降りられずに過ぎてしまいます。
家に帰ると、私が「この世の終わり」みたいな顔で帰ってくるので、母は心配してこちらの顔をちらちら見てるのが分かります。
母は私が沈んでると明るくしようと努めてくれますし、私も心配をかけさせたくないのですが、表情は沈んでいて、やりたいことも手につかず、茫然としてる時間が増えました。
会社で働いて賃金をもらう以上は、「会社のルール」に従うしかないとは思います。
でも働いているのは機械でなく人間だから、完璧にいかなくて落ち込んだり、自分を責めて病んでいく人もいます。
心身ともに風邪を引かないためには、自分自身に「耐性」をつけないと、厳しいこの世を生きながらえることはできないのかもしれません。
ブログは料理のようなもの
「お客さん増えた?」
先日母と話していていきなりこの質問をされて、一瞬「ん?」となった。
仕事は忙しくなってるから、お客さんが増えたといえば増えたのかもしれない。
「何の?」
と聞き返すと、どうやら私のブログの話だった。
「いや、増えてないよ。」
私がブログを始めた頃に母もツイッターを始めていて、母はよくそこで知り合った人の話をしている。
その話の流れで、自分のブログは全く人気がないよという話は何度かしたことがあった。
私がブログを初めてからお客さんは増えていない。
普通に利益をとって運営してるなら、とっくに潰れている個人商店だ。
ブログについて常々「料理」に似ていると思うことがある。
ブログの完成度でいえば、プロ級の腕前の人から、普段料理をしたことがない人が家族のためにやってみよう的なレベルの人がいる。
流行っているお店(ブログ)を見て、普段は食べる専門(ブログを読む専門)の人も、自分も店を構えて作ってみようと試みる(ブログを書いてみる)。
実際にお店を始めてみると、上手くいく人ばかりではないと分かる。
脱サラしたくて勢いで起業してみたものの、お客さんも増えないし、売上も芳しくない。
現実に失望してひっそりとお店をたたむ(ブログをやめる)人もいるだろう。
ネットには「始めてみるとこんないいことがあるよ」という情報はあっても、「上手くいかない場合もある」という情報は少ない。
料理を全く作ったことがなく、手探りで完成させたような料理(ブログ)は知名度もなければ、食してくれる人もいない。
知り合いがいれば振る舞う程度だ。
どうすればより多くの人に食べてもらえる料理になるか。
それには、
・多くの人が目につくところに店を構える
➡ブログを更新する回数を増やしたり、人がよく読みそうな時間に記事をあげる
・ビラ配りや営業回りをする
➡同じようにブログを書いている人や知り合いに挨拶に行き、ブログを知ってもらう
・有名店や有名ガイドなどに紹介してもらう
➡アクセス数の多いブロガーの人に話題にしてもらったり、ツイッターなどで拡散してもらったり、有名サイトでブログの記事を取り上げてもらう
ざっとあげるとこんな感じだろうか。
正直どれもしたことがない。
なぜかと聞かれれば、自分から売り込むのが得意でないというのもあるけど、どうしても全てが「仕事の延長」に思えるからだろう。
自分のブログを読んでいる方には、その方の時間を使わせてしまっているので、腕前を上げて少しでも「参考になった」とか「面白かった」と思ってもらえるの記事が書けるのが一番である。
ただどうしてもアクセス数とか読者数を意識して記事を書いていると、プレッシャーがかかり思ったような記事が書けなくて、書いているのか書かされているのか分からなくなる。
当ブログは「今必要とされてないブログ」になってしまっているけど、そういうプレッシャーが少ないのは気楽といえばそうかもしれない。
自宅の近くに家族経営的なラーメン屋がある。
私はそこの「洗礼されてない昔ながらのラーメン屋」っていう雰囲気が何となく気に入っていて、
チンゲン菜だらけの担々麺が好きだったのだが、
母が、「あの店はチンゲン菜ばっか入れて~。」と気に入ってなかったらしく、あんまり行かなくなってしまった。
こういう洗礼されてない感じの店は真っ先になくなっていくなと思う。
ブログも「素人感」がある整ってないような人のブログは検索にも引っ掛からず、誰にも読んでもらえず消えていくのだろうと思う。
ブログをやってみて感じたのは、ネットの世界が広いようで意外と狭いということだ。
検索結果はアクセスが多いものをあげるから、どうしても多数の意見に偏る気もするし、検索にかからない情報を知るのも一手間かかる。
私は出先で食事する時、お店選びは冒険だとおもっている。
どうしても人は行列が出来る店が気になるし、おいしいと思うだろう。
確かにそういう情報に引っ張られる時もあるけど、「自分が何を欲しているか」に忠実に、食べたいものを食べ、作りたい料理を作ればよいと思う。
このブログは、食べてくれた(読んでくれた方)が食あたりを起こしそうな微妙な料理(記事)が多いが(笑)、お店を探している時に偶然見つけて、「おいしかった」と思ってもらえれば万々歳である。
正直ブログを続けるか悩んでいる状態である。
たまにふらっと店に来て、「あの潰れそうな店、まだやってるわ~。」と思っていただければと思う。