夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

取り替えの出来ない人間

先日ノーベル文学賞の発表があり、カズオ・イシグロさんが受賞されたとのニュースがやっておりました。

…………。

残念ながら私は彼の作品を読んだことはありません。(~_~;)


でもイシグロさんの著作を原作とした『わたしを離さないで』という映画を見に行ったことがあります。

私は原作のある映画を見たら、たいてい原作の方も読むことが多いのですが、図書館では借りられていることが多く、人気のある作品なのだなと実感しておりました。(買いなはれや~と言われそう……(笑))



その映画を見に行ったきっかけは、その何ヵ月か前に『ソーシャル・ネットワーク』というフェイスブックの創業者の方をモデルにした映画を見に行ったことでした。

そこに出られてた俳優の方の演技が気になっていたのですが、たまたま美容室で待ってる時に読んだ雑誌にこの『わたしを~』が紹介されていて、見に行こうと思ったのです。

「あっ、あの俳優さんが出てる。(@_@)」



公開終了の一週間前ぐらいで、急いで映画館に向かいました。🏃💨

映画についてはほとんど前知識もなく、雑誌にはざっくりとしたあらすじしか載っておらず、物語の「核心」には触れられていませんでした。



映画を見てから間があるので、記憶が鮮明ではないのですが、その時の感想を振り返ってみました。


確か物語の初めは、手術室に横たわる男の人をガラス越しに見つめる女の人のシーンから始まったと思います。
恋人が「病気」で、「先は長くない」のかなと思えるシーンでした。


それから小学生ぐらいの子供達の「学校」での生活の描写がありました。

いつもいじめられてる男の子がいて、それを主人公の女の子が気になって話しかけるようになり、段々と2人は親しくなります。

その様子を見ていた別の女の子が嫉妬して、2人の間に割って入って、それは年齢を重ねるごとに三角関係うんぬんという話になっていきました。


映画に出てくる建物とか自然の風景とか素敵な感じで、この恋愛物語がどういう方向に行くのかな~という感じでした。


私は最初、その中で度々出てくる「オリジナル」という言葉の意味がよく分からず見てました。

物語が進むにつれて、その意味を理解した時に一気に寒気のようなものを感じました。



どうやらこの「学校」と思われる施設で生活する子供達はみな「誰かのクローン」で、元の人間の臓器が使えなくなった時に、代わりに臓器を提供することを運命づけられた子供達でした。

衝撃的すぎて固まってしまいました。(@_@;)



でも映画前半の、子供達の様子や彼、彼女が抱く感情の描写が「普通」と変わりなかったからこそ、後半部に生きてきたのかなと思いました。

肉体こそは誰かのコピーであっても、人が生まれてから接する環境や人々によって作られる物語は、コピーしようがない一回性のものなんだと。



三角関係の終わりは、嫉妬していた女の子が主人公の気持ちを知りながら彼を自分のものにしようとしたことを謝り、複数回目の臓器提供を終えて亡くなり、やっと両思いになれた主人公と彼も、すぐに彼の方にも臓器提供の運命がやってきて……、

で、冒頭のシーンに至る、という感じでした。



普通の恋愛映画でしたら、恋敵の女の子は非難の対象になりそうですが、彼女達の運命を思えば、いつでも死が身近にあって、自分の人生設計もままならいのですから、ずるい方法でも束の間の恋愛ぐらいよいではないかと思える部分もありました。



この映画を見た2週間後ぐらいに、私の叔母がくも膜下出血で倒れて帰らぬ人となりました。

この年は叔母以外にも身近な方が1人亡くなったり、母が入退院を繰り返していたりと、人の生き死にについて考えてさせられることが多かった気がします。


特にこの映画を見に行った2011年の6月は、東日本大震災が起きて3ヶ月後の世の中でした。
私より若い方も大勢亡くなって、まだ自分の人生とか考えることもないうちにこの世を去った小さい子もいらしたと思います。


明日また一つ歳を重ねる前に、人生について考えてみた私であります。


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映画のパンフレット

「正しさ」とは何だろう

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ここ最近、毎日のように会社で先輩に怒られていて、正直会社に行くのがつらかったりします。


怒られる理由が理解出来るものであれば苦しくないのですが、「私には」理解出来ないものが結構あったりします。
「理解出来ない私が悪いのか」、それとも「理不尽なことを言われてるのか」とずっと考えて疲れてしまいます。


ここでそれを詳しく書いて、もし読んで下さった方がいたとしたら、その方の受け取り方によって、「怒られて当然」と思う方もおられるだろうし、「理不尽なことで怒られている」と感じる方もおられるかもしれません。



「正しさ」って一体何でしょうね…………。




人が何か行動する時は、必ず「その人なりの理由」があるはずですが、それは「その行動を見た人の感じ方」によっては違った意味合いになっていくものだと思います。

いい例がすぐに思いつかないのですが、例えば、はたから見れば「捨てちまえ!」と言われるものであふれるゴミ屋敷も、本人にしてみれば「いつか使える宝の山」という話。



人は他人の行動を見て、なぜそうしたかを理解出来れば肯定的な態度を示し、理解に苦しむ場合は否定的な感情を示すのだろうと思います。

ゴミ屋敷の例で言えば、家中を満たしているものが全て「亡くなった奥さんの私物」とかだったら、否定的な目で見ていた人の一部は「仕方ないか」と思うかもしれない。



先輩に言われた一言だけは納得しました。


「仕事は結果が全て」



家中を満たしているものに思い入れがあろうがなかろうが、はたから見ればゴミ屋敷。


私が「よかれ」と思ってしたことも、相手にとって不快だったり迷惑だったとしたら、どんな意図があったとしても関係ないのだと。



私は元々相手が「どういう意図でそうしたのか」を読み取るのが苦手だったりします。
それに加えて私はヘンなヤツなので、「自分がどういう意図でそうしたのか」を理解されないことが多いのです。

自分の思う「正しさ」が本当に正しいのか、分からなくなってよれよれに疲れてしまう人生なのです。

寂しいと死んでしまうのは、うさぎではなく人間

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もう20年ぐらい前の話ですが、私が通っていた小学校では当時チャボを2羽、うさぎを2羽飼っておりました。

小学生だった私の中で当時うさちゃんブームが巻き起こっていて(笑)、小学校6年の時に飼育委員になってお世話をしたり、夏休みの課題でうさぎの種類を調べて出したりしてました。


私は友人と一緒に委員をしてましたので、うさぎを1匹ずつ面倒見てました。
(チャボは同じクラスの男子児童2人がお世話してました。)


私が中学校に上がってすぐ、人づてにうさぎ達2羽が相次いで亡くなったと聞きました。
驚きとショックを隠せませんでした。


私は友人と死因についてあれこれ推測して(寿命説、病気説うんぬん)、顔を見合わせて、

「うさぎは寂しいと死んじゃうのかな……。」

と「まさかね~」という感じで話していたことを最近ふと思い出して、ネットで調べてしまいました。



そしたら「うさぎは不衛生にしてるとよくない」という話をどこかで見ました。

それには思い当たるといえば思い当たるような……。


私の一年下の飼育委員の男子児童がよく、掃除当番をすっぽかしていて、友人とよく「困ったものだ」と話しておりました。

断定は出来ないけれど……、まさかね。



それにしても、うさぎは放っておかれると「寂しい」って感じるのでしょうか。
昔祖母の家で飼っていた犬は、私達が帰省すると嬉しいのか、飛びかかってきましたが。(笑)

「放っておかれると寂しいのは人間」なのではないかと思ったりします。



今日ネットのニュースをぼーっと見ていたら、「親が自分よりスマホを大切にしている」と感じている子供が2割いるとかそんな話が載ってました。

子供に自我が出てきて、自分一人の世界を持ち始める年齢になったらまだしも、それ以前の小さい子どもだったらかわいそうだなと正直思いました。



ちょっとそれるかもしれませんが、私の母は私がブログを始めた頃からツイッターをしております。


私の話は聞いてるような聞いていないような、「現実の私のつぶやきはことごとく無視されてるんじゃないか」ということがありました。

以前私が外出する前に、「~行ってくるからね。分かった?」と念を押して出かけた時に、帰ってくるなり「帰ってくるの遅い!私聞いていないよ!」と怒られて、言った言わないの口論になったことがありました。


最近私がつらいことがあって、そういう時は本を読んだり、音楽ガンガンにして「我の世界」になったりしてたのですが、それに対して「私の話を聞いてない!」と口論になったり……。


母とは本当バトルしてばかりですよ。(苦笑)



私は小さい頃から母に怒られてばかりいて、よく家から追い出されていました。

母は「お前は小さい時から何考えてるか分からん」と言います。


今になって「家から追い出さなくても別の方法があったんじゃないか。」と私が言うと、
「お前が言うこと聞かないからじゃないか!他にどうしろって言うの?」
と言われてまた口論に……。


私は家から追い出されて、冷たいコンクリートに座りながら「本当の親は別にいて、こんなに怒ったりせずもっと大切にしてくれるはず」と思ったりして、そう思うことで何とか生き延びていた気がします。



人間ってホントめんどくさいな、と思います。

今週は会社でも先輩に怒られまくって、ひどく疲れてしまいました。



自分の言いたいことはちゃんと相手に伝わっているのでしょうか?
ただストレスが溜まって八つ当たりで怒っているだけなのか、相手が損することを心配して言っているのかーーーーー。


考えの違う人を受け入れる器を持っているでしょうか?
考えが違うから排除したり、敵意を向けることが本来取るべき態度なのかーーーー。



ということをあれこれ考えていました。
人と分かり合えないことはつらく、人を孤独にさせ、孤独が人に「居場所がない」と思わせているのかもしれません。

予定通りにいかない人生

昨日、土曜日も開いている病院に行ったらやっておらず、受付のところで気が抜けてしまいました。
祝日(秋分の日)だったんですね……。(~_~;)


元々病院が済んだら買い物に行くつもりだったので、そのまま直行しました。
私が以前勤めていた会社がある街で、よく仕事終わりに買い物して帰ったりしてました。


そこに有名な画材屋さんがあって、(当時私は働きながら漫画家になる学校に1年間だけ通っていたので)、インクやら原稿用紙やら色々買って帰れたので便利でした。

文房具も品数豊富で、昨日はそのお店の文房具で欲しいのがあったので行ったのが主な目的でした。



今は大分漫画を描くことや、絵を描くことから遠ざかってしまったなと思います。

その漫画の学校では、3ヶ月に1回ぐらいの間隔でページ数が決まった作品を出すのですが、私は日中はフルタイムで働いていたので、時間がなくてかなりヤバい状態でした。



私は最近特に、この「限られた時間でいかにやりたいことをやるか」について考えることが増えました。


例えばブログを書いてらっしゃる方だと、「インプットとアウトプット問題」があるかと思います。

ブログを書くには、本やニュースを読んだり、何らかの経験をしたりとかする「インプット作業」と、それをどういう方向の記事にするか考え、書き出したり、入力する「アウトプット作業」が行われます。


そのインプットとアウトプット作業に、どれくらいの時間を割り当てるかは人それぞれかと思います。

私の場合、「インプットとアウトプットの両方にさく時間をもっと確保できたらいいのに!」と常々もんもんとしております。

☆ブログに書きたいネタがあるのに、書いてる時間がない。
☆ネタにもう少し肉付けしたいのに、本とか読んでる時間がない。


「「時間がない。」は言い訳だ。時間は自分で作るものだ。」

という人がいるのも、ごもっともなんですけどね。
(-_-;)(-_-;)(-_-;)

最近体調不良なことが多く、前の仕事でムリをしたのがかなり響いているのかななんて思ったりします。



書店に行くと、時間の使い方に関する本が結構出てたりして、みな時間について工夫してやりたいことを実現しているのかと思います。

私はやりたいことの全てを一度に叶えようとすると、どこかでパンクしてしまいそうです。


「人生、これでよかったのかな。」

と思うことが何度もありますが、夢や目標はあくまでも一時的な「予定」であって、それが延期したり、その通りにいかないことが「失敗」というわけではないのですよね。

「予定」通りにいかなくても、自分なりの手順と速度で、焦らず気負わず、それも自分の人生だと思って、マイペースでやっていければなと思います。

自分を表すことで現れてくるもの

以前、私が大学時代に心理学を学んでいた話を聞いたある方から、

「すごいっすね。相手が何考えてるか分かるんですね。」

と言われことがあります。



……。



「そんなの分かるかいっ!!!!!!(@_@)」



分かるんであれば、今まで苦労しなかったわ……。


……はて?
相手の考えていることが仮に分かれば、苦労はしないのだろうか?

ドラゴンボール』という漫画に、相手の戦闘力がわかる「スカウター」という道具が出てきます。
それみたいに、覗いた相手の人間が自分に好意的かどうか分かる機械があったら……。



私はそんなもの恐ろしくて、とてもとても使えません。

片思いをしてる人なら、相手が自分にどれくらい好意的か分かれば、「いきなり告白して玉砕」なんてことは減るかもしれません。


ただ、自分が所属する組織(学校や会社など)の人が、自分に対してかなりの割合で好意的でないことが「数値化」されてしまったら、ショックでもう部屋から一歩も出られなくなってしまいます。



現実には(いいのか悪いのか)心の「スカウター」はないので、自分自身の「価値観」とか「直感」という「スカウター」ではかるしかありません。



心理学は「事前に相手を知る」というより、「起きた現象から遡って相手を知る」という学問でしょうか。

私は人生で何度かいじめにあってきましたが、いつもいじめをする人に「何が」そうさせたのか、考えたりしました。

その人が育ってきた家庭は、その人にとっての「居場所」となっていなかったのか、とか。
学問として成り立つには、それら個人の事例の集まりが必要ですけどね。



誰かを知る時だって、その人がどういう人か情報があればあるほど、それだけ輪郭がはっきりしてくるかもしれません。


私のブログはあまりそういうところは充実してないかもしれないですね。(~_~;)

正直どういうふうに自分を表したらいいか、分からないのが自分で、今まで誤解(?)をうけたり、「何を考えてるか分からない」と言われたりしました。


だから取りあえず記事を書いていけば、自分がどういうヤツか、ぼんやりとでも輪郭が見えてくるかなという感じで。

それを見て、
「おっ、ヘンなやつがブログ書いてるぞ。」
と気になられる方がいたら、老若男女関わらず、読んでいただければ幸いです。



「私」という輪郭が表れてくるにつれて、私に好意的でない人もおられるかもしれません。

でも変えられないのが自分自身というもの。


今はネット上には正しいのか偽りなのか分からない情報があふれてて、それを基準に「この人はこういうやつだ」と判断されます。
(有名人とか特にね。)

それが「自分の思う自分」とはかけ離れていってしまう場合もあると思います。


だからこそ「表現」というものが難しいのだと思います。
偽らず、かつ人を傷つけない表現なんてあるのかも分からぬものです。


だから私は、表に出てくる「表現」(言葉なり表情だったり、絵画や本などでも)の「元」になるもの(不安や、喜びなどその他もろもろ)を、しっかり見極める目を養いたいと日々思っております。



たくさん人と繋がれて、時には簡単に人を切り捨てたり切り捨てられる時代。

これまで人と分かり合えない悲しみと格闘してきた私ですが、当ブログを通じて、誰かが少しでも前向きな気持ちを持てたらよいなと思っております。

ブログ2年生

今日でブログ2年生に進級しました。

正式に言うとはてなブログに開設したのは、昨年の8月なのですが、1ヶ月ぐらい記事を書いておらずですね。
最初の記事を載せたのが昨年の9月11日であります。



昨年の今頃はまだ以前の職場におりました。

長時間労働だし、同僚にいじめられてるはで、何か色んな意味でヤバイ状態でした。
色々悩んだ末に上司に「辞めたい」話をしたのが昨年の8月でした。


リアルな世界で一人闘っている時に、私が日常のことや、仕事のあれやこれやを書いたブログ記事を読んでくださる方がいたことがホントに心の支えになっていました。



「何かを変えたい」

と勢いブログを始めたものの、どんな記事を書いたらよいかいつも手探りでした。

元々大学で社会学とか心理学を学んでいて、いつかその分野に関する興味を何かの形で生かしたいという思いがあったのと、こういうダメな生き方をしてるヤツのぼやきが少しは役に立つのではないかという思いがあって、へんてこ記事を世に送り出したのであります。



続けていく中で、
「こんな内容でよいのか?」と悩んだり、
「そういえば私はそんなに社交的ではなかった」
と、勝手に落ち込むことはしょっちゅうでした。

何度も辞めようと思っておりましたが、今日までこうして続いております。



ブログも、仕事も、
「いつでも辞められる」
と思っていたぐらいの方が、気が楽で意外と続いていくものかもしれません。

人生だってきっと、そうーーーー。




このあほたれーなブログを読んでくださったり、☆をくださったり、コメントをくださったり、読者になってくださった方、ホントにありがとうございます。



自分にとって「表現」という活動は、なくてはならないものだと改めて自覚するようになった今日この頃です。
ブログのネタが切れたことはないので、後は形にするための時間やらエネルギーをいかに確保するかが今の問題です。


これからも少しでも誰かのお役に立てればありがたいです。

命の洗濯

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私は基本、会社に行ったらもくもくと仕事をしているヤツなのですが、同じ部署にいる先輩と「コンビニの何とかというスイーツが美味しい」といったゆる~い話から、「私たちが年金をもらえるのは何歳か」といった堅い話までしたりします。


私はあまり自分から話しかけるタイプではないのですが、そういう「雑多な話が出来る関係性」が一度出来たら、余程のことがなければ変わらないと信じてる部分がありました。
友達と「また明日~」と別れても、確認する必要もなく明日もまた友達としていられるみたいな。


それが今週、何か調子が違う日が多かったのです。
何となく「そっけない」というか。


いつもなら私に仕事を頼む時も、「朝から大変なの来たね~」とか言いながら渡してきたりするのですが、
「やって」
と一言だけ。


「体調がすぐれない」とか、「忙しいのかな」と思っていました。

私がやれることをやろうと思ってやっていたら、
「それはやらなくていいから。」とか、
「これはこういうやり方じゃないから」
と言われてしまい、朝から何となく疲れてしまいました。


「私何かやってしまったかな……。」

と思っても、言われないと結局本人にしか分からないので、考えるのはやめました。
午後にはいつもの感じだったので、原因は分からぬままでした。



私の父親は短気で、いつもお酒を飲んで家で暴れてました。
恐らく会社でのストレスが溜まっていて、それをぶつけやすい家族にぶちまけていたのだと思います。

ただ私たち家族にしてみれば、何が原因かも分からない訳で、常に緊張状態に包まれてました。
父親が遅くに帰ってくる時には、いつも母と「寝たふり寝たふり!」と布団をかぶっていた記憶があります。



人間いつもにこにこ笑っていられる訳ではありません。
何かの事情があって、笑えない時や、つい誰かにキツく当たってしまう時もあると思います。

それは付き合いが長くなればお互い様のところがあるので、「何か虫の居所が悪いんかね~」と流すようにはしてますが、精神的なダメージがハンパないというか……。



こういう時「いちいち反応する「心」がなければいいのに」とか、「必要以上に関わらない方が傷つかなくてよかったのに」、と思ってしまいます。


私は父親も母親も兄も、みんな短気だったので、「今この人に話しかけていいのか?」と相手に気を使わせたくないといつも平静を装おうとしているところがあります。

でも人には感情というものがあって、誰かを大切にしたり、優しい言葉をかけたりする一方で、「死ね」だの「ウザイ」だのといって誰かを仲間外れにしたりするものです。


だから某ベストセラー本に書いてあるように、
「全ての悩みは人間関係である」

なんてことも、ある部分では「そうかもしれない」と思ってしまう訳です。


でも人と全く関わらないで生きることは出来ないので、人間関係で負った傷のようなものは、自分で消化していくしかないのだと思います。



私のブログのアイコンはお空のマークですが、空を見ていると一瞬憂いを忘れられたりします。
写真を撮るのも好きなので、結構気晴らしになったりします。

最近海に行きたいと思っているので、静かな海でも見て、何か近くでご飯でも食べて、「命の洗濯」をしてきたいなと思ったりしています。