夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

理想の働き方

会社に退職の意志を伝えてから、1ヶ月が過ぎた。

ここへきて、少し具体的なスケジュールが組まれた。来月から引き継ぎやら何やらで忙しくなりそうだ。

辞めることを知った方から、「戦場から逃げ出した脱走兵」を見るかのような目付きで見られても、致し方ないと思うことにした。



毎日笑えなくても、
毎日まともに食べる時間がなくても、
毎日朝の挨拶すら無視されても、

大問題に発展するようなミスをおかさず、
ついていくのがやっとでも、とりあえず仕事を回すことが出来れば、クビにならない限り仕事は続けられただろう。
体力とか気力がなくなるのは、仕事というものが決して楽なものではないのだから仕方のないこと。

でもこの生活を続けていたら、何年生きられるのだろう。



私の叔母は、子供の学費のために仕事を2つかけ持ちでしていた。
祖父の葬儀で会った時は、昔会っていた頃からは想像出来ないくらい酷く疲れた顔をしていた。

それが叔母を目にした最後だった。

仕事から帰って、ベランダから洗濯物を取り込んでいる時に倒れて、そのまま帰らぬ人になった。


生前から病気でもあまり病院に行かず、「私はいつ死んでもいいのよ。」と言っていたそうだ。
まさかこんなに早く、こんなにあっけなく逝ってしまうとは思わなかった。

母はよく叔母と私の雰囲気が似ていると言っているが、確かにその自己破壊的な生き方が自分と通ずるものがあると感じる。
自分もどこか同じ道を辿るのではないかとよく思う

私にはどこまでが「仕事とはこういうもの」として我慢すべきなのかが分からない。
仕事が合わないとはいえ、一つの職場に長くいないことは「甘え」とか「逃げ」とかマイナスなイメージとして捉えられる。


母は学校を卒業してすぐに独り暮らしをしていたし、私の年齢の時には子供が2人もいた。

だから実家暮らしで親に頼っている今の私の様子を見ていて、「いい歳してもっとしっかりしないと」
とか、「人生甘く見ている」とよく非難してくる。


自分でも生き方が不器用で、上手く立ち回れないことを心底辛いと思っているのに、せめて家族だけでもこんなダメな自分の味方でいて欲しいと思ってしまう。


働くことは楽ではないと分かっている。
でもただ「生きるため」という漠然とした理由だけでは気持ちが続かない。

色々な職場を見てきて思うのは、「どういう仕事が向いているか」に加えて、「何(誰)のために働くか」という動機が必要だ。

例えば恋人や結婚相手が「自営業を始めたい。」と決めたならば、少しでも協力するために経理的な知識などを身につけようとするかもしれないし、相手が精神的につらそうで何とかしてあげたいと思ったら、精神医学的な知識を学ぼうとするかもしれない。

本来仕事とは誰かが抱えている問題を代わりに解決することである。

誰かを○○にしてあげたいと思い、行動することが意外と自分に適した仕事のヒントかもしれないし、そういう生き方をしてみたいと思う。