夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

一つの価値観に縛られない生き方

 

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◎はじめに

『「ひきこもり」経験の社会学』(関水徹平著、2016、左右社)という本を図書館で借りて読んだ。

「ひきこもり」というと皆はどういうイメージを持っているだろうか。

 

この本の表紙にはでかでかと数字の「3」が書かれている。

これは「ひきこもり」とされる人の中で、外に出られない人の割合が3%という、世間の「ひきこもりとは自室にこもっている」というイメージとのギャップを表している。

 

このように世間がとらえる「ひきこもり」の捉え方と、自らを「ひきこもり」とする人の捉え方は異なっている。

本書では「ひきこもり」経験をした当事者の視点と、経験のない当事者以外の視点から「ひきこもり」経験とは何かを問い直し、あるべき社会の姿について考えさせる本である。

 

 

◎当事者にとっての「ひきこもり」経験とは

「ひきこもり」状態になる人の事情はそれぞれだ。

自分が所属する学校や職場に何らかの違和感を感じたり、そこでつらい経験をして通えなくなることもある。

理由はどうであれ当事者が苦しむのは、「なぜ学校に行かないの?」「なぜ働かないの?」という世間からの問いかけと、それに対する「なぜ自分はそうできないのか?」という自分自身への二重の問いかけである。

 

本書では「ひきこもり」経験のある方のインタビューの内容が紹介され、どのようにして周りが期待するような生き方が出来ない自分と向き合ったか語られている。

他の人が出来ることが出来ない自分を責めて苦しむ中で、次第に世間が突きつける問いが正しいのかという疑問が生じ、そんな自分にでも受け入れてくれる環境があるのではと思い始める。

そのきっかけとなったのは「ひきこもり」という言葉によるものである。

 

自分のどうしようのない、どうしたらいいか分からない状態が、「ひきこもり」というワードを介して同じような悩みを抱える人やそういった方を支援しようとする人とを結び付ける。

それは書籍などのメディアの場合もあれば、同じ経験を持つ人同士の集まりである場合もある。

自らを「ひきこもり」とすることは、周囲からそれに付随する否定的なイメージとともに一括りに見られる一方で、自分は皆とは分かり合えないという孤独感が癒され、未来の自分の生き方を考えるきっかけを与えてくれる。

 

 

◎当事者以外にとっての「ひきこもり」経験とは

ここでは世間で「ひきこもり」がどのように扱われてきたかをたどっている。

当事者以外が語る「ひきこもり」問題に共通するのは、語る側が想定する正常性を基準として、それに対する「逸脱」としての位置付けである。

 

それには主に以下の文脈で語られている。(p.238)

・社会的自立を基準とする「就労」

・人並みの暮らしを基準とする「貧困」

メンタルヘルスの正常性を基準とする「精神保健」

 

「ひきこもり」が世間で知られるようになって、当初は何らかの精神疾患によるものや、「打たれ弱さ」といった性格的な部分によるものといった語られ方から、若年層の雇用環境の変化による就労や貧困問題と関連して語られるようになってきたのがうかがえる。

問題を個人の問題だけではなく、社会の問題としての見方がされるようになることは、望ましい流れではあるが、いまだに「逸脱」した状態から想定された「こうあるべき状態」に移行することが目指されているという点で、「ひきこもり」当事者がよりよく生きるための議論には至っていない。

 

 

◎「ひきこもり」の人が目指すべきところはどこか

今現在「学校に行けない」、「働けない」と苦しむ「ひきこもり」の人が目指すべきところはどこなのだろうか。

例えば働けないで苦しんでいる人が、定職に就くようになれば問題は解決したと言えるのだろうか。

 

人の価値観、考え方、生き方などについて、かくあるべきという基準を設け、その基準に同化することをよしとする考え方を「同化主義」と呼ぶならば、「ひきこもり」経験者たちの多くは、少なくとも当初は「多数派のあり方への同化主義」にとらわれている。

彼・彼女たちが葛藤を経験するのは、多数派の生き方から「逸脱」し、基準に適合できない自分を否定せざるをえないからだ。(p.357)

 

とあるように、「学校を卒業したら定職に就くべき」ということに同化しようとしてできなければ、それ以外に生きる道が閉ざされたと感じるだろう。

冒頭で紹介したように、「ひきこもり」の人の中で文字通り「自室にこもって外出しないでいる」割合は少ないということは、目的によっては外の環境とつながることが出来るということだ。

ここでは「ひきこもり」の人であっても、趣味や関心のある事に参加できるという例をあげ、どのように社会と結びついてゆけばよいか次のような考えが示されている。

 

状況的自己に関する考察は、「ひきこもり」経験者にとって、状況に参加するために自分を鍛錬しようと考える必要はないことを示唆する。必要なことは、どのような状況であれば参加できそうなのか、あるいは参加したいのかを考え、参加できそうな状況には参加してみるという試行を繰り返すことだ。そこで求められているのは、参加に踏み出せない自分自身を変えようとする努力というよりは、自分がどのような状況であれば参加したい、あるいは参加できると思えるのかを冷静に考えるー抽象的な「社会参加」についてではなく、具体的な状況への参加について考えるーことだろう。(p.278)

 

「ひきこもり」の人が、一度は外れてしまった多数派の生き方をもう一度生きる目標にするのも一つの生き方である。

しかしすべての人が皆と同じように学校に行ける、働ける状態が必ずしもゴールではないと言える。

 

社会とつながる環境は一つではないし、自分がらしく生きられる場所は、何回も試して辞めてを繰り返してやっと辿り着ける場所なのかもしれない。

 

「ひきこもり」経験とは、ごく限られた人のみに関係する話ではなく、全ての人がより良い人生を生きるために試行錯誤する過程でもある。

 

 

◎おわりに

ここではこの本のざっくりとした感想と自身の経験を述べて結びとしたい。

 

私自身に「ひきこもり」経験はないけれど、学生時代の友人にはひきこもり気味の人がいた。

友人の抱える辛さは本人にしか分からないし、何をしてあげればいいのか私には分からず遊びに誘うぐらいしかできなかったが、ただ友人が苦しくない環境が見つかればよいなと願っていた。

 

今から10年前ぐらいに私は大学で社会学を学んでいたのだが、関心があったのは同年代やそれよりすこし前の世代の就労問題だった。

以前若者を取り巻く働き方の話といえば、やりたいことをするために敢えてフリーターをするという話がよく語られていた。

それが自分が就職活動をする頃には、若者の働き方を語るうえでニートというワードが出てきた。

これまで信じられてきた卒業後は定職に就いて、「普通」の生活を送るという価値観が揺らいでいた。

若者に関して、やりたいことをするためのフリーターというイメージがあったためなのか、「働けない」人は社会の問題というより、自立できない個人の問題としての扱いがされてきた。

 

 

社会問題が問題としてあらわれてくる背景には、社会の既存の仕組みが上手くいっていない部分があると感じる。

もちろん自ら選んだ生き方として定職に就かないという選択肢もあるかと思う。

 

しかし世の中には「働きたくても働けない」、「何かしようにも何をどうすればよいかわからない」といった人もいるのだ。

この本で紹介されていた日本の福祉が立ち遅れているという現状は「ひきこもり」問題にとどまらず、日本のあらゆる問題に通じている話なのでこれからも議論されるべき話題だと思う。

現状個人の生活を成り立たせるためには自営で稼ぐか、企業に勤めることで得られる所得によるものである。

それが出来なくなった場合の生きる道が残されていないため、過労死寸前まで働く職場でも働き続ける人が出てくるのだろう。 

社会福祉が整うことで、「ひきこもり」の人を含め、すべての人が人生を何度でもやり直す基盤ができるはずなのに、現状はなかなか厳しいものである。