人生という名の演劇
段々と涼しくなってきて、暑がりの私にしてみたら嬉しいような、夏が終わっていくのが寂しいような今日この頃です。
家庭内にも別な意味で「冷たい空気」が充満しております。
母と些細なことで口論になりました。
私は家事を大抵やってますが、仕事で疲れてしまって夕飯を食べた後に寝てしまうことが最近多く、それが母にとってはイライラするのだそうです。
私としては身が持たないので、少しは考慮して欲しいと思うのですが、母いわく、母が私の年齢の頃は子供も2人いて、それでも家事も全部一人でやっていたのだから、私に出来ないはずがないーーーとのこと。
「私に出来たのだからあなたも出来る」
という考え方が私はどうも苦手で、「出来なくても私がやれる範囲でやってるじゃん!」と、噛みついてしまうのですよ。
完璧じゃない相手を受け入れるから、私も完璧にいかなくても許してよと思うのです。
喧嘩が始まると恐ろしいもので、普段は言わなくてもいいことまで言ってしまいます。
母の「自分も大変だった話」から、
私の「そんな大変だ大変だって言うなら、何で子供を生んだの!」話になり、
結局「あなたは子供を生んで育てたことがないから分からないんだよ。」から、
「育ててきてそんなに文句言われるなら、生まなければよかった。」で終結しました。
これを言われてしまうと、さすがに何も言えない……。
経験はなくとも子育てが大変なのは想像がつきます。だって「人間」を一から育てるのだから。
けれど、未経験者はどうしても経験者には勝てません。
それに「生まなければよかった」と言われても、私がいない時代に戻ってやり直すことなど絶対に出来ません。
それが可能なら、とっくにやっています。
私のくそ真面目な性格やら、不器用な振る舞いの自分自身に嫌気がさして、何度も「生まれてこなければよかった」と思ったものです。
先日新聞のニュースで、親が子供を育てられない、望まない妊娠だったなどの事情で、生まれた子供が捨てられている問題の記事が載っていました。
人一人が生まれて、自分の足で歩けるようになるまで、親はかなりの労力、お金、時間を費やさなくてはならず、「何となく子供が欲しかった」とかでは済まされない問題であるかを物語っています。
親の事情がどうであろうと、一度この世に生まれて存在するならば、子供は親とは別の人間として、死ぬまで生き続けなければなりません。
人生はまるで演劇のようです。
親が子供を持つ行為は、単なる始まりに過ぎません。
演劇に例えるならば、親はあくまでも劇場を用意したということです。
始めは資金提供したり、劇場の設備をよくしたりはしますが、そこでどんな演劇を上映するかは、子供自身が考えて行わなくてはなりません。
親が自分はどういう演劇を上映しているか示したり、どういう演劇なら楽しめるか、アドバイスすることは出来ても、代わりに脚本を書くことは出来ないのです。
生き続けていれば、自分の演劇に興味を持って見に来てくれる人(友人)や、面白そうだからそばにいて、一緒に脚本を書いてみようとする人(恋人や結婚相手)が現れます。
そういう人が誰も現れず、孤独に劇を上映し続ける人生の人もいます。
でも生きていれば、シナリオはいくらでも変更可能です。
悲劇ばかり上映している人も、他人の喜劇を見たら、自分もそういう脚本を書きたくなるかもしれません。
どんな演劇を上映してよいのか分からない人は、他人の劇を一杯見て、色々な人の人生を知って、自分なりの脚本を作り上げるしかありません。
今辛い環境で耐えている人も、そうでない人も。
「生きていれば何とかなる」精神で。
何度も劇場破壊を試みようとした、一脚本家より願いを込めて。