夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

変わりやすい、人の心と秋の空

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ここ最近、気分が沈んでました。

そういう時は何もする気力も湧かず、何をしても全部否定的な考えに引きずられていくので、ブログも書ける状態ではありませんでした。


少し前に何か思って書いた記事も、下書きの中に置いたまま。
まるでお客さんに出そうと思って握ったお寿司を出しそびれて、ネタの鮮度がどんどん落ちて出すタイミングを失い、ご飯もかちこちになってるようなもんです。

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それに人に何かを話す時は、ある程度自分の中で考えが固まってからじゃないといかんなというのもあるかもしれません。


何で気分が沈んでるのか色々考えてました。
元気にならない話なので、こちらの記事にお越しになった方、スルーしてもよいのですよ。



私が勤める職場の先輩は、どちらかというと気分に波があり、落ち着いている時は普通の調子で話かけて下さるのですが、急に何かのスイッチが入ったように鬼の形相でにらみつけて、私の態度や行動を責めてくることがあります。

その度に、
「人間って何なのだろう。」
と、哲学の旅に出てしまいます。


これまで何人もそういう人に出会ってきましたが、何が大変かというと、いつ態度が変わるか分からないから、いつも緊張状態が続いて、いつの間にか疲労が半端ないことになってるからなのです。


それでよみがえった苦い記憶が…………。



私が大学時代の友人に、引きこもり気味で授業も来たり来なかったりする方がおりました。

私は生きるのが不器用そうな人を見ると何か親近感がわいて、もしその方の周りに誰も助けてくれる人がいなくて、こんなダメ人間の私でも頼りにしてくれているならば何か出来ないかなと思うところがありました。


なので「遊びに行こう」と誘いのメールを出したら、返事が来ないのです。
嫌なら嫌で、はっきりしたかったのですが、それを確かめるのも怖くて、敢えて触れずにいました。


その友人とは同じ授業を選択してることが多く、たいてい相手から話かけてくれていたのですが、その友人はある時から離れたところで授業を受けて、そのまま一人で帰っていくようになりました。


「私、何かまずいことしたのかしら…………。」


と、自分で自分を責めるようになり、まるでうつ病のような状態になってしまいました。


それから半年ぐらいたってその友人から、
「どこ行こうか?」
と返事が来たときには、もう嬉しいのか悲しいのかワケが分からず、ただ、混乱して疲れきっている自分がいました。



人間って分からないなと思います。
自分のことだって十分に理解しているとはいえません。


ただ相手の態度から「想像」するだけ。
それはあくまでも自分の「想像」であって、実際の姿とは違うのかもしれません。


私は自分から声をかけた方と親しくなった試しがないので、自分から誰かに声をかけることも控えるようになりました。
自分に興味がない人に声をかけても、きっと迷惑なんだろうし、何せ自分がよれよれになってしまう。


色々考え過ぎなんでしょうね、きっと……。
相手の態度がどうであろうと、いちいち気にしないで「そんなものか」と思えればよいのですが。



あと、ここ最近の曇り空と雨天がよくない。(+_+)

私はこういう天気だとなぜか気分が落ち込みやすいので、早く回復して欲しいのです。🌈☀


私の大好きな秋がすっ飛ばされて、いきなり冬が来てしまってがっかりですよ。( ´△`)

誕生日滅入る

一昨日は私の誕生日でした。

10月9日を意識しているのは、同じ10月9日の誕生日の人だけで、他の人はただの月曜日で祝日で、体育の日なんだろうと思います。

歳が一つ増えたところで、急に何かが変わる訳でもなく、いつもの休日と何ら変わりなく、布団を干して、衣替えをして1日が終わってしまいました。



誕生日というと、兄貴からいつもメールがきます。
普段全く連絡をしてこないのに、何故か私の誕生日だけは(兄貴が独り暮らしをしてから)毎年欠かさずきます。


それが夕方にもなっても来なかったので、
「忘れたんだろう。(@_@)」
と思っていたら、忘れていませんでした。


いつもはホント短い文章2、3行ぐらいで
「おめでとう。今年はうんぬん……」
という感じなのですが、今年は長い…………。


兄貴の文章が長すぎて、しかも主語がすっとばされて、兄貴のことなのか、私のことなのかわかりづらかった。

でもまぁ、要約すると、
「一人の人生は孤独だから、親が死ぬ前に備えておけ。」
ということらしかったのです。


備えろと言われてもねぇ…………。

兄貴は少し前に「結婚できないと孤独死だ」みたいなことばかりをずっと言ってて、どうしようかと思っていたのであーります。



私は今30代前半ですが、この歳にもなると結婚する人が増えてくる気がします。

私みたいにいつまでも独身でいると、「何か人格に問題でもあるんじゃないか」って思われたりするんだろうな…………、と最近は思うことも多くなりました。


そりゃー、帰ったら誰もいない暗い部屋はテンション下がるだろうし、「独身でも寂しくない」といえば嘘になるのかもしれませんが、あまり「結婚、結婚」って考え過ぎない方が気が楽ではないかと、思うのです。


こればかりは私と兄貴で「何が幸せか」の基準が違うからなのかもしれないし、男女によって事情が異なるからなのかもしれません。


今の時代、生涯未婚の人の割合だって増えてきてるのですから、段々とそういう生き方でも生活していけるよう、社会の方が変わらんといかんのですよ。


兄貴には私と違って学生時代からの友人もおりますし、野球のことだったら大体何でも知ってたりしますので、そーいう「今自分が持ってるもの」を大切にしていって欲しい、と、妹は思っておるのですよ。


って、誰の誕生日だっけ……?

取り替えの出来ない人間

先日ノーベル文学賞の発表があり、カズオ・イシグロさんが受賞されたとのニュースがやっておりました。

…………。

残念ながら私は彼の作品を読んだことはありません。(~_~;)


でもイシグロさんの著作を原作とした『わたしを離さないで』という映画を見に行ったことがあります。

私は原作のある映画を見たら、たいてい原作の方も読むことが多いのですが、図書館では借りられていることが多く、人気のある作品なのだなと実感しておりました。(買いなはれや~と言われそう……(笑))



その映画を見に行ったきっかけは、その何ヵ月か前に『ソーシャル・ネットワーク』というフェイスブックの創業者の方をモデルにした映画を見に行ったことでした。

そこに出られてた俳優の方の演技が気になっていたのですが、たまたま美容室で待ってる時に読んだ雑誌にこの『わたしを~』が紹介されていて、見に行こうと思ったのです。

「あっ、あの俳優さんが出てる。(@_@)」



公開終了の一週間前ぐらいで、急いで映画館に向かいました。🏃💨

映画についてはほとんど前知識もなく、雑誌にはざっくりとしたあらすじしか載っておらず、物語の「核心」には触れられていませんでした。



映画を見てから間があるので、記憶が鮮明ではないのですが、その時の感想を振り返ってみました。


確か物語の初めは、手術室に横たわる男の人をガラス越しに見つめる女の人のシーンから始まったと思います。
恋人が「病気」で、「先は長くない」のかなと思えるシーンでした。


それから小学生ぐらいの子供達の「学校」での生活の描写がありました。

いつもいじめられてる男の子がいて、それを主人公の女の子が気になって話しかけるようになり、段々と2人は親しくなります。

その様子を見ていた別の女の子が嫉妬して、2人の間に割って入って、それは年齢を重ねるごとに三角関係うんぬんという話になっていきました。


映画に出てくる建物とか自然の風景とか素敵な感じで、この恋愛物語がどういう方向に行くのかな~という感じでした。


私は最初、その中で度々出てくる「オリジナル」という言葉の意味がよく分からず見てました。

物語が進むにつれて、その意味を理解した時に一気に寒気のようなものを感じました。



どうやらこの「学校」と思われる施設で生活する子供達はみな「誰かのクローン」で、元の人間の臓器が使えなくなった時に、代わりに臓器を提供することを運命づけられた子供達でした。

衝撃的すぎて固まってしまいました。(@_@;)



でも映画前半の、子供達の様子や彼、彼女が抱く感情の描写が「普通」と変わりなかったからこそ、後半部に生きてきたのかなと思いました。

肉体こそは誰かのコピーであっても、人が生まれてから接する環境や人々によって作られる物語は、コピーしようがない一回性のものなんだと。



三角関係の終わりは、嫉妬していた女の子が主人公の気持ちを知りながら彼を自分のものにしようとしたことを謝り、複数回目の臓器提供を終えて亡くなり、やっと両思いになれた主人公と彼も、すぐに彼の方にも臓器提供の運命がやってきて……、

で、冒頭のシーンに至る、という感じでした。



普通の恋愛映画でしたら、恋敵の女の子は非難の対象になりそうですが、彼女達の運命を思えば、いつでも死が身近にあって、自分の人生設計もままならいのですから、ずるい方法でも束の間の恋愛ぐらいよいではないかと思える部分もありました。



この映画を見た2週間後ぐらいに、私の叔母がくも膜下出血で倒れて帰らぬ人となりました。

この年は叔母以外にも身近な方が1人亡くなったり、母が入退院を繰り返していたりと、人の生き死にについて考えてさせられることが多かった気がします。


特にこの映画を見に行った2011年の6月は、東日本大震災が起きて3ヶ月後の世の中でした。
私より若い方も大勢亡くなって、まだ自分の人生とか考えることもないうちにこの世を去った小さい子もいらしたと思います。


明日また一つ歳を重ねる前に、人生について考えてみた私であります。


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映画のパンフレット

「正しさ」とは何だろう

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ここ最近、毎日のように会社で先輩に怒られていて、正直会社に行くのがつらかったりします。


怒られる理由が理解出来るものであれば苦しくないのですが、「私には」理解出来ないものが結構あったりします。
「理解出来ない私が悪いのか」、それとも「理不尽なことを言われてるのか」とずっと考えて疲れてしまいます。


ここでそれを詳しく書いて、もし読んで下さった方がいたとしたら、その方の受け取り方によって、「怒られて当然」と思う方もおられるだろうし、「理不尽なことで怒られている」と感じる方もおられるかもしれません。



「正しさ」って一体何でしょうね…………。




人が何か行動する時は、必ず「その人なりの理由」があるはずですが、それは「その行動を見た人の感じ方」によっては違った意味合いになっていくものだと思います。

いい例がすぐに思いつかないのですが、例えば、はたから見れば「捨てちまえ!」と言われるものであふれるゴミ屋敷も、本人にしてみれば「いつか使える宝の山」という話。



人は他人の行動を見て、なぜそうしたかを理解出来れば肯定的な態度を示し、理解に苦しむ場合は否定的な感情を示すのだろうと思います。

ゴミ屋敷の例で言えば、家中を満たしているものが全て「亡くなった奥さんの私物」とかだったら、否定的な目で見ていた人の一部は「仕方ないか」と思うかもしれない。



先輩に言われた一言だけは納得しました。


「仕事は結果が全て」



家中を満たしているものに思い入れがあろうがなかろうが、はたから見ればゴミ屋敷。


私が「よかれ」と思ってしたことも、相手にとって不快だったり迷惑だったとしたら、どんな意図があったとしても関係ないのだと。



私は元々相手が「どういう意図でそうしたのか」を読み取るのが苦手だったりします。
それに加えて私はヘンなヤツなので、「自分がどういう意図でそうしたのか」を理解されないことが多いのです。

自分の思う「正しさ」が本当に正しいのか、分からなくなってよれよれに疲れてしまう人生なのです。

寂しいと死んでしまうのは、うさぎではなく人間

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もう20年ぐらい前の話ですが、私が通っていた小学校では当時チャボを2羽、うさぎを2羽飼っておりました。

小学生だった私の中で当時うさちゃんブームが巻き起こっていて(笑)、小学校6年の時に飼育委員になってお世話をしたり、夏休みの課題でうさぎの種類を調べて出したりしてました。


私は友人と一緒に委員をしてましたので、うさぎを1匹ずつ面倒見てました。
(チャボは同じクラスの男子児童2人がお世話してました。)


私が中学校に上がってすぐ、人づてにうさぎ達2羽が相次いで亡くなったと聞きました。
驚きとショックを隠せませんでした。


私は友人と死因についてあれこれ推測して(寿命説、病気説うんぬん)、顔を見合わせて、

「うさぎは寂しいと死んじゃうのかな……。」

と「まさかね~」という感じで話していたことを最近ふと思い出して、ネットで調べてしまいました。



そしたら「うさぎは不衛生にしてるとよくない」という話をどこかで見ました。

それには思い当たるといえば思い当たるような……。


私の一年下の飼育委員の男子児童がよく、掃除当番をすっぽかしていて、友人とよく「困ったものだ」と話しておりました。

断定は出来ないけれど……、まさかね。



それにしても、うさぎは放っておかれると「寂しい」って感じるのでしょうか。
昔祖母の家で飼っていた犬は、私達が帰省すると嬉しいのか、飛びかかってきましたが。(笑)

「放っておかれると寂しいのは人間」なのではないかと思ったりします。



今日ネットのニュースをぼーっと見ていたら、「親が自分よりスマホを大切にしている」と感じている子供が2割いるとかそんな話が載ってました。

子供に自我が出てきて、自分一人の世界を持ち始める年齢になったらまだしも、それ以前の小さい子どもだったらかわいそうだなと正直思いました。



ちょっとそれるかもしれませんが、私の母は私がブログを始めた頃からツイッターをしております。


私の話は聞いてるような聞いていないような、「現実の私のつぶやきはことごとく無視されてるんじゃないか」ということがありました。

以前私が外出する前に、「~行ってくるからね。分かった?」と念を押して出かけた時に、帰ってくるなり「帰ってくるの遅い!私聞いていないよ!」と怒られて、言った言わないの口論になったことがありました。


最近私がつらいことがあって、そういう時は本を読んだり、音楽ガンガンにして「我の世界」になったりしてたのですが、それに対して「私の話を聞いてない!」と口論になったり……。


母とは本当バトルしてばかりですよ。(苦笑)



私は小さい頃から母に怒られてばかりいて、よく家から追い出されていました。

母は「お前は小さい時から何考えてるか分からん」と言います。


今になって「家から追い出さなくても別の方法があったんじゃないか。」と私が言うと、
「お前が言うこと聞かないからじゃないか!他にどうしろって言うの?」
と言われてまた口論に……。


私は家から追い出されて、冷たいコンクリートに座りながら「本当の親は別にいて、こんなに怒ったりせずもっと大切にしてくれるはず」と思ったりして、そう思うことで何とか生き延びていた気がします。



人間ってホントめんどくさいな、と思います。

今週は会社でも先輩に怒られまくって、ひどく疲れてしまいました。



自分の言いたいことはちゃんと相手に伝わっているのでしょうか?
ただストレスが溜まって八つ当たりで怒っているだけなのか、相手が損することを心配して言っているのかーーーーー。


考えの違う人を受け入れる器を持っているでしょうか?
考えが違うから排除したり、敵意を向けることが本来取るべき態度なのかーーーー。



ということをあれこれ考えていました。
人と分かり合えないことはつらく、人を孤独にさせ、孤独が人に「居場所がない」と思わせているのかもしれません。

予定通りにいかない人生

昨日、土曜日も開いている病院に行ったらやっておらず、受付のところで気が抜けてしまいました。
祝日(秋分の日)だったんですね……。(~_~;)


元々病院が済んだら買い物に行くつもりだったので、そのまま直行しました。
私が以前勤めていた会社がある街で、よく仕事終わりに買い物して帰ったりしてました。


そこに有名な画材屋さんがあって、(当時私は働きながら漫画家になる学校に1年間だけ通っていたので)、インクやら原稿用紙やら色々買って帰れたので便利でした。

文房具も品数豊富で、昨日はそのお店の文房具で欲しいのがあったので行ったのが主な目的でした。



今は大分漫画を描くことや、絵を描くことから遠ざかってしまったなと思います。

その漫画の学校では、3ヶ月に1回ぐらいの間隔でページ数が決まった作品を出すのですが、私は日中はフルタイムで働いていたので、時間がなくてかなりヤバい状態でした。



私は最近特に、この「限られた時間でいかにやりたいことをやるか」について考えることが増えました。


例えばブログを書いてらっしゃる方だと、「インプットとアウトプット問題」があるかと思います。

ブログを書くには、本やニュースを読んだり、何らかの経験をしたりとかする「インプット作業」と、それをどういう方向の記事にするか考え、書き出したり、入力する「アウトプット作業」が行われます。


そのインプットとアウトプット作業に、どれくらいの時間を割り当てるかは人それぞれかと思います。

私の場合、「インプットとアウトプットの両方にさく時間をもっと確保できたらいいのに!」と常々もんもんとしております。

☆ブログに書きたいネタがあるのに、書いてる時間がない。
☆ネタにもう少し肉付けしたいのに、本とか読んでる時間がない。


「「時間がない。」は言い訳だ。時間は自分で作るものだ。」

という人がいるのも、ごもっともなんですけどね。
(-_-;)(-_-;)(-_-;)

最近体調不良なことが多く、前の仕事でムリをしたのがかなり響いているのかななんて思ったりします。



書店に行くと、時間の使い方に関する本が結構出てたりして、みな時間について工夫してやりたいことを実現しているのかと思います。

私はやりたいことの全てを一度に叶えようとすると、どこかでパンクしてしまいそうです。


「人生、これでよかったのかな。」

と思うことが何度もありますが、夢や目標はあくまでも一時的な「予定」であって、それが延期したり、その通りにいかないことが「失敗」というわけではないのですよね。

「予定」通りにいかなくても、自分なりの手順と速度で、焦らず気負わず、それも自分の人生だと思って、マイペースでやっていければなと思います。

自分を表すことで現れてくるもの

以前、私が大学時代に心理学を学んでいた話を聞いたある方から、

「すごいっすね。相手が何考えてるか分かるんですね。」

と言われことがあります。



……。



「そんなの分かるかいっ!!!!!!(@_@)」



分かるんであれば、今まで苦労しなかったわ……。


……はて?
相手の考えていることが仮に分かれば、苦労はしないのだろうか?

ドラゴンボール』という漫画に、相手の戦闘力がわかる「スカウター」という道具が出てきます。
それみたいに、覗いた相手の人間が自分に好意的かどうか分かる機械があったら……。



私はそんなもの恐ろしくて、とてもとても使えません。

片思いをしてる人なら、相手が自分にどれくらい好意的か分かれば、「いきなり告白して玉砕」なんてことは減るかもしれません。


ただ、自分が所属する組織(学校や会社など)の人が、自分に対してかなりの割合で好意的でないことが「数値化」されてしまったら、ショックでもう部屋から一歩も出られなくなってしまいます。



現実には(いいのか悪いのか)心の「スカウター」はないので、自分自身の「価値観」とか「直感」という「スカウター」ではかるしかありません。



心理学は「事前に相手を知る」というより、「起きた現象から遡って相手を知る」という学問でしょうか。

私は人生で何度かいじめにあってきましたが、いつもいじめをする人に「何が」そうさせたのか、考えたりしました。

その人が育ってきた家庭は、その人にとっての「居場所」となっていなかったのか、とか。
学問として成り立つには、それら個人の事例の集まりが必要ですけどね。



誰かを知る時だって、その人がどういう人か情報があればあるほど、それだけ輪郭がはっきりしてくるかもしれません。


私のブログはあまりそういうところは充実してないかもしれないですね。(~_~;)

正直どういうふうに自分を表したらいいか、分からないのが自分で、今まで誤解(?)をうけたり、「何を考えてるか分からない」と言われたりしました。


だから取りあえず記事を書いていけば、自分がどういうヤツか、ぼんやりとでも輪郭が見えてくるかなという感じで。

それを見て、
「おっ、ヘンなやつがブログ書いてるぞ。」
と気になられる方がいたら、老若男女関わらず、読んでいただければ幸いです。



「私」という輪郭が表れてくるにつれて、私に好意的でない人もおられるかもしれません。

でも変えられないのが自分自身というもの。


今はネット上には正しいのか偽りなのか分からない情報があふれてて、それを基準に「この人はこういうやつだ」と判断されます。
(有名人とか特にね。)

それが「自分の思う自分」とはかけ離れていってしまう場合もあると思います。


だからこそ「表現」というものが難しいのだと思います。
偽らず、かつ人を傷つけない表現なんてあるのかも分からぬものです。


だから私は、表に出てくる「表現」(言葉なり表情だったり、絵画や本などでも)の「元」になるもの(不安や、喜びなどその他もろもろ)を、しっかり見極める目を養いたいと日々思っております。



たくさん人と繋がれて、時には簡単に人を切り捨てたり切り捨てられる時代。

これまで人と分かり合えない悲しみと格闘してきた私ですが、当ブログを通じて、誰かが少しでも前向きな気持ちを持てたらよいなと思っております。