適度な距離感
映画の『君の名は。』見に行ってきました。
何だか流行りに乗っかってしまったみたいで恥ずかしいのですが、一言でいえば「いい作品ですね~。」で終わってしまう。
正直な感想は「一言で言い表せない」という感じです。
見る人の価値観や育ってきた環境や立場などによって、何通りもの解釈が出来ると思います。
ここから先は思いっきりネタばらしします。
「私まだ見てなくて楽しみにしてたのにぃ~!」
という方は、映画を見た後で読んでいただけたら幸いです。
映画の中で相対するものがいくつも出てきました。
田舎暮らしと都会暮らし。
女の子の日常と男の子の日常。
伝統文化(神社が守ってきた歴史や行い)と現代文化(携帯電話やそれに付随する機能)。
あの世とこの世。
日常と非日常。
それらは一見離れているようで近い、近いようで離れているという気がします。
離れてると思われていた田舎と都会も以前に比べれば距離は縮まりました。
新幹線はどんどん手足を伸ばしてますし、情報技術の発達で遠方に住んでる人とも気軽にやりとりできるようになりました。
生きている世界とあの世の距離感について考えたのは、三葉ちゃんの住んでいる街に隕石の破片が落ちて街が一変してしまったシーンを見た時です。
何気ない日常が一瞬にして非日常に変わる。
昨日まで普通に会話していた人が次の日にはいなくっている。一つの選択が生死を分ける。
変わり果てた街の姿を見て、瀧君が茫然としてしまっている場面を見て、5年前の震災の時のことが「バッ」と頭を駆け抜けました。
場面を追うごとに色々と感じることがあり、それがこの映画がヒットしている理由の一つかなと感じました。
私が映画を思い返して気になったところは、
瀧君にとって「対岸の火事」だと思っていた隕石の落下事故が、いつ「当事者感覚」になったのか。
「あんた誰?」と言ってた三葉ちゃんの名前を呼んで呼んで呼びまくるようになったのはなぜかというところ。
これは距離感かなと思います。
まず最初にお互いの体が入れ替わることで、お互いの距離が「近すぎちゃってどうしよう~」レベルまで近づき、それぞれの日常を知っていくことで最早自分の身に起きた出来事にすら感じるようになる。
それで2人は物理的な距離を縮めようとしたら、2人の時差は3年もあるし、携帯は繋がらなくなるし、携帯に残されたデータも消え、果てはお互いの名前すら思い出せなくなっている。
しかも三葉ちゃんが3年前に隕石の落下事故で亡くなってたとしたら一生会うことはできない。
近いと思っていた距離が想像しなかったほど離れているということ、すぐ会えると思っていたのにどんどん離れていくこと。
そのジレンマみたいのがこの映画の旨味かなと思いました。
映画の最後の最後で2人はやっと再会するに至りましたが、現実の世界だと会いたいと思っている人は、一度離れたらなかなか会えないよな~と夢もメルヘンの欠片もないことを思う私。
ホントに大切な人とは離れるべきではない。
そう思う映画です。