戦争は終わらないけど
10月に入ってから仕事の引き継ぎに追われ、毎日くたびれぼろ雑巾だった。
14日が最後の出社日だった。
色んな意味で苦しかったから、朝会社に向かう道のりで
「今日が最後なんだーーー」
なんて思うことはなかった。
やり残しがないように頭の隅々を探し回るので精一杯だった。
まさかこんなに早く辞めることになるとは思わなかった。
今回の仕事に就くまで半年ほど就職活動をしていた。働いていることも辛いが、働いていないことも同じくらい辛いということを痛いほど感じていた。
自分はよい人生を選ぶために辞めたと前向きになろうとしても、日中外を歩いていると近所の人から「何でこんな時間に家にいるのか」と思われてる気がしてタイミングを見て家を出たり、応募した会社から次々に不採用の知らせがくるとホントこの世の終わりくらい何も手に付かなくなったりした。
だから働き始めた頃は「ここで頑張らないと」と思っていた。私の将来を案じている親を少しは楽にしてあげられると思っていた。
ところが…
私の前任者が同僚から無視されていた。
多忙な職場だが、その方は私よりも仕事が出来る方で、食事のとれない私の体調を気遣ってくれたりして、そんな方が不遇な目にあっている理由が全く分からなかった。
その方が辞められてから、仕事と一緒に「無視の対象」という立場が引き継がれた。
今までそんな思いをしたことは一度や二度ではなかったから、何とかやりすごそうと努力した。
それでも毎日私の欠点ばかり目をつけて、毎日のように呼び出されては一対数名で闘うしかなかった。
味方は誰もいなかった。
そもそも自分と似ているタイプの人が誰もいなかったため、皆私に非があるという目で見ているのがよく分かった。
でも幸い仕事が忙しすぎて、そういう態度を気にする余裕なんてなかった。
それでも家に帰ると辛かった時間ばかりが思い出され、それを打ち消す手段もないまま毎日忙殺されていた。
仕事自体は大変だったが、大変であった分、抱えていた件が解決に向かったりすると、それだけで「あぁ、よかった」という変な達成感があった。
人間関係の悩みなんてどこでもある話だ。
それよりも目の前にある課題に一生懸命になる方が大事だった。
でも毎日何を見ても笑えなくて、時間がないから気持ちを切り替えられないまま朝がきて、毎日ただ働くだけの機械になっていた。
こんなんで辞めるなんて自分に甘いし、忍耐が足りないと分かっていた。
でも心の中ではすでに限界に達していた。
最後の出社だったので、挨拶をしてまわった。
私を無視していた人々は最後まで態度は変わらず、こちらが渡したお礼の品を返してきた。
分かりきってはいたけど、悲しくないといえば嘘だし、最後まで「大人げない」と思った。
全員が敵だと思っていた。
皆私が悪いと思って、毎日冷たい視線を送ってきたからだ。
だけど全員が敵ではなかったと知った。
挨拶をしに行って、ホントに残念だと思ってくれている人も数人いて、表情を見るだけで分かった。
私が作業している部屋から出たタイミングで声をかけてくれる人もいて、
「大変だったね。次はいいところが見つかるといいね。」
と言ってくれる人もいた。
少し前に辞める話をした方からは思わぬプレゼントをいただいて、帰ってから開けてみたらお菓子とお守りが入っていた。
忙しい中、私のためにお守りを買いに行ってくれたのだと思うと本当に泣けてきて、こんなダメで迷惑かけ通しの私でも、感謝して送り出してくれれる人がいることが嬉しかった。
辛かった職場だったけど、それだけではなかった。
私を無視していた同僚に今まで何度もひどいことを言われ続けた。
話を聞いているとその根本にあるのは、大量の仕事に対してその状況が改善されないことに対する職場への苛立ちがある。
そもそも前任者ではなく私に関していえば、私が不器用なため仕事がその方達より終わるのが遅く、
「皆頑張っているのにどうして終わらないの!」
という考えからだった。
その度に私は、
「人それぞれ得意不得意があって、皆が皆機械のように同じ結果が出せる訳ではない。」
と反論していた。
私の性質が彼女達と全く合わなかったのもあるけど、普段の態度を見ていると、日頃の過酷な業務のストレスを誰かにぶつけたいだけのようにも思えた。
まさに「戦場」と呼べるに等しい職場だった。
戦争は人々の人格をも変えてしまう。
普段なら「人を殺すなんて…」と思っている人でも、戦地に出ればやらなければ自分がやられるし、周りの人間が人を殺していたら、「他の人もやっているのだから」とためらいすらなく人を殺せるようになる。
本来であれば「こんな態度は相手が傷つくだろう」と思うような人でも、周りも言ってるし、「共通敵」だから何をしてもよいだろうという考えになる。
戦争だからそうなるのは仕方ない…。
と思いたくないのが、私である。
私はアウシュビッツ体験をしたフランクルの本を読んだことがあるが、その中で人を殺すことが当たり前だったあの環境でも、人として変えてはいけない性質を持ち続けた人がいることを知った。
(以来フランクルは私の心の支えになっている。)
個性を持った人間という存在である以上、人間同士の争いがなくなるはことはないだろう。
今生きている世の中は、使える人間は酷使され続け、使えない(と見なされた)人間はガス室(=死に値する何か)に行かされるような世の中ではないかと思える日々だ。
そんな世の中でも「自分とはどういう人間か」という意思を持ち、どんな環境でも冷静に見つめられる態度を維持していきたいと思う。