かこの支配からの卒業
今は卒業シーズンですね。
駅で花を持った学生服や袴姿の方とか見かけます。
自分の卒業の思い出といえば……。
~小学校~
小学6年の時に飼育委員だったので、飼ってたチャボとウサギとアルバムに載せる写真を撮ったのですが、私はその頃風邪ひいて休んでたので、うさちゃんと写真を撮るためによれよれと学校に行った記憶があります。
~中学校~
中学は最初の頃はいじめがあったのでホント辛かったのですが、クラス替えしてから少し話せる人が男女ともいたのが大きかったかなと思います。
卒業アルバムの空いてるところとかに友人や先生方からメッセージを書いてもらったりして、
「あっ、こんなふうに思ってくれてたんだ……。」
とじ~んとくることはありました。
~高校~
私は高校卒業した時にはまだ進路が決まってませんでした。
大学に行く方向でしたが、どこも決まっておらず「卒業」という気分に全然なれませんでしたね。
まだ終わってないよ!という感じで……。
当時の担任の先生には迷惑おかけしました。
現在もずっとその先生だけは年賀状を下さるのですが、毎年「こんな仕事もままならない今を過ごしてて申し訳ない…」って気分になります。
~大学~
一番親しかった友人が単位を落としてしまい、一緒に卒業出来なかったのがホント寂しかったです。
卒業して働き始めることを思うと、辛くて絶望的な気分になってましたね。
とまぁ、覚えてる感じで。(^_^;)
学生時代は今みたいな人生を送るとは思ってませんでしたね。
働くようになってから仕事の夢ばっかみるようになりました。
日中も職場で責められて、夢の中でも責められて、ホント地獄ですよ。
ついこの前まで就職活動してた時も寝ながら泣いてたらしく、母から「何か泣いてたよ。」と言われて驚く始末。
先週の休みは部屋の片付けをしとりました。
友人からもらったお土産のキーホルダーとかは懐かしく持っております。
色んなところをほじくると昔集めてたシールやら消しゴムやらいっぱい出てきて、片付けから何度か脱線してましたね…。(*_*)
前に働いていた会社からもらった書類とか見ると、
「何でこんなに苦しめられてたんだろう!」
という気分になりました。
もう今は「卒業」を経験することはなくなりましたが、物事には必ず始まりと終わりがあって、どんなに楽しいことも、辛いことも、長くは続かないもんだと感じるようになりました。
○片付けの脱線で発掘された品々
昔よく親に買ってもらったアイスについてたシールです。懐かしや。
こんなんばっか集めてましたね。
分解っ!
もはや何だかわからん。(笑)
おとなが育つ条件
最近『おとなが育つ条件 発達心理学から考える』という本を読みました。
大学時代に「生涯発達」について学んだことがありますが、こういう内容は生きる上で結構ためになる話かと思います。
「発達」というと子供に関しての話かと思われますが、「生涯発達」とは人は一生を通じて発達する存在として捉える見方です。
今の日本を見ると、寿命の伸びや、雇用環境の変化など、人生選択に迷う状況が色々生じてきています。
私は上記の本を読んで、「男は仕事、女は家庭」という価値観が人生を生きづらくさせているにも関わらず、いまだに世に強く根付いていると改めて感じました。
昨今話題になっている保育園不足の問題も、女性が仕事と子育てを両立する生き方に追い付いていないと言えますし、引きこもりの人に男性が多いのも、男性の生き方が「男は仕事」という見方をされてることに対する抵抗感からきているのではと思うのです。
世に根付いている価値観が、人生の選択肢を狭め、あらゆる環境で成長する機会を奪っているとしたらとんでもないことです。
私は大学に入った辺りから人生迷走し出して、新卒での就職も上手くいかず、その後も何度か転職しました。
世の中では一つの会社に居続けることがよいとされる考えもまだありますが、私は一つの道を選んだら
ずっとその道を歩まなければいけないとは思わんです。
悩んで、選んで、失敗してを繰り返してきましたが、その時その時真剣に考えて選んだ道の結果でもあります。
一発で自分に適した道を選べる人がいたら会ってみたいものです。
今人生に迷い動けずに苦しんでる人も、自分の人生を真剣に考えるからこそ一歩踏み出せずにいるのかもしれません。
私は、生きている限りはいくらでも人は伸びていけると思います。
私のように不器用な人間は、他の人からしたら全く進歩していないように見えるのかもしれませんが、出来ることから少しずつやっていけば、何かしら得られるはずです。
人生の選択は難しくて辛いものですが、働くか否かや、結婚するかしないかなど、自分がしたいように決めるべきです。
周りの価値観に囚われず、自分に与えられた時間を試行錯誤しながら使っていけばよいのです。
自分の選ぶ道の全ては「自己鍛練の場」として、自分が成長出来る機会として素直に受け入れていけばよいと思っている今日この頃です。
今の仕事を始めて一ヶ月たちました。
以前より収入もかつかつで、仕事も初めてのことに神経使いまくりで帰ってきたら疲れて寝てしまう毎日です。
ですが私の仕事具合を心配してくれる先輩がおり、世の中にはそういう方もおられるのかと驚きながら、何とか踏ん張っております。
自分は自分の人生を生きるしかない
職場で仕事の引き継ぎをしております。
引き継ぎをしている退職される方は、周りにも気配りが出来て性格も親しみやすく、同僚の方が彼女を評価しているのが身近にいても感じられます。
最近自分の気が滅入って、しょぼくれた記事ばかり書いていたのも、彼女と自分を比較して自信喪失していたからかもしれませぬ。
冷静に考えると、生まれも育ちも違う人と能力の比較をしてもどうしようもないのだと思います。
機械で決められた通り作られている、世に並ぶパッケージされた商品であれば比較されてしかるべきですが、人間持ってきた能力はそれぞれなので、比較しようもありません。
それなのに比較してしまうのは、周りの評価によるところが大きいのだろうと思います。
周りが自分を「駄目なヤツ」と評価したら、自分自身も「自分は駄目なヤツ」と感じるようになります。
人間どのようになるのが「正解」という明確な完成図がないから、今の自分でいいのか分からなくなって不安になったり、将来が見えずに苦しんだりするもんです。
結局は、自分の意志で決めた行動の積み重ねが「自分」というものを作っていくんですけどね。
私は今30代前半なのですが、20代は仕事に悩んで苦しんでるだけで終わってしまった感があります。
もう少し何か得意分野を作るとか、大恋愛をしてみるとか(笑)、そういう「生き生きした感じ」がなかったなと……。
そんなんなので、これから何か一つでも続けて腕を磨いていけるものが欲しいなと漠然と考えては、「それはなんぞや?」と迷走しております。
20代に特に何も出来なかったのは仕事が安定してなかったのもありますが、とにかく「金銭面で余裕が全くなかった」というのもあります。
やはり何だかんだいっても、お金がないと出来ることが限られてきますし、やりたいことがたくさん出来るようになれば人生の選択肢ももっと広まりますからね。
自分が楽しいと感じることは、「責任」とか「利益」とか考えずに済むから楽しいのであって、仕事は楽しさと別物であっても仕方ないのでしょうね……。
ブログとは一体何なのだろう
私がブログをやり始めて半年がたちました。
「あっ、もう半年?」
というより、
「まだ半年なんだ……。」
という感じです。
私はこのブログを始めるまで、他のSNSやらをやっておらず、mixiぐらいしかやったことがありませんでした。
そのmixiですら、大学の友人に誘われたからであって、自発的に「何かを発信しよう!」という動機ではありませんでした。
携帯をスマートフォンに変えたのがちょうど1年前ぐらいだったので、それから他の方のブログを読んだりし始めました。
スマートフォンにかじりついて検索ばっかりしまくっていたのは、完璧に仕事とか人生が上手くいっていなかったからだと思います。
本当にいつ死んでもおかしくない状況で、「私以外にも人生苦しんでいる人がいる」と知ることで、踏みとどまってまた一日を生き延びることが出来ておりました。
人間誰しも孤独なモンで、それを埋めるために行動したりして、何らかの充足感を得ようとします。
私の以前いた職場の同僚に私と似たような内向的な方がいて、その方がブログで知り合った方と会った話をしてらっしゃいました。
その話を聞いて、私は「会う」までは出来なくても、ブログを始めてみたら色々な交流が生まれて、自分の性格を変えるきっかけにはなるのではないかーという印象を持ちました。
何について書けばよいのか分からぬまま、とりあえず始めてみることしました。
実際ブログを始めてみて、学ぶことはありました。
ブログを始めたら自分の性格が変わるか、
というと答えは「変わらん」です。
現実の世界で内向的な私はネット上でも変わらず、孤独感が埋まるどころかますます孤独な感じになってきて、始めた当初はガチで落ち込んでました。
最近は以前より落ち込まなくなりました。
慣れですよ。多分。
ブログとは一体何なのだろう。
なんてこと考えながらブログを書いてるのは私ぐらいでしょうね。
自分の崩壊した家のこととか、自分の直らない性格の話を現実で付き合いのあった人に話したことなんてないに等しいですよ。
なぜかというとそういう話をしたら「場の空気を変えてしまうかも」とか、「距離をおかれるかも」と思うからだと思います。
でも人生に必要なのは、そういうことを話せる人が一人でもいることです。
人に言えないことは人に言えないが故に苦しく、人生の逃げ道を塞いでしまったりします。
ブログを書くことで自分自身が変わっていたとしても、本人が気づいていないだけなのかもしれません。
長くブログを続けてる方は自分が初期に書いた記事を読み返すと、変化を感じられるかもしれないですね。
私はブログを通じて変わるのは書いた本人だけではなくて、それを読んだ方の方だと思います。
当たり前と言えばそうなのですが。
紹介してくれた本について調べたり、起きている社会状況について関心を持ったりして、読んだ自分の行動が導かれたりしてるなぁーと感じることがあるからです。
「ブログとは一体何か。」の答えは一通りではないものです。
私のように何も売りがない平平平凡な人間がブログを書いても面白くないと思います。
「人のため」と称しつつ、結局「自分が認められたい」がために書いているのかもしれません。
ただ書いている内容は一つ一つ自分の心に向き合って書いているつもりです。
しょーもない私のブログは世のため人のためならずして情報の洪水に消えていく遭難船ですが、これまで読んでくださった方の力に少しでもなれてたらブログをやってみてよかったと思います。
文章能力とかレイアウトはからっきしダメなので、ブログ書くには向いていないんでしょうね……。
駄目な自分の受け皿
仕事をしていると自分の欠点が浮き彫りになり、ひどい自己嫌悪に悩まされます。
前職ではその欠点をかなり責められ、同僚から無視をされていて、自分の中の「人間不信」みたいのが強くなり、どんどん自信もなくなり、生きる気力も相当奪われていました。
少し前に読んだ本で、
「自分の駄目なところを受け入れてくれる人がいることで人は自立出来る」
といったようなことが書かれておりました。
親の中には、子供のやることが自分の価値観と合わないと「あれは駄目」「それは駄目」といって、なぜそうしたのかも考えない人もおります。
結果子供の自信を奪い、自立を妨げることにもなります。
自分の価値観を否定され続けると自分に自信が持てなくなり、人の指示がないと動けなかったり、一つの価値観に縛られて何かに依存しやすくなると思います。
自分を否定されて育った人と、そうでない人の「生きる力の強さ」の差は歴然としてます。
でも幼い頃の生育環境が恵まれなくても、その後に出会う人に恵まれればいくらでも挽回は可能です。
ただ問題なのは、自信がない人は人と上手く繋がれないので、色々な人と出会う機会がなく、変わるきっかけがないところです。
私の父親は学業に支障が出るからと、親(私の祖母)に反対されて学生時代に野球をさせてもらえなかったと、母から聞いたことがあります。
家庭内暴力で家庭崩壊を招いた張本人なので、一生許せることはないと思いますが、社交的でなく、器用でない性格が父親譲りの私は(嫌だー!)、必然的に考えてしまうことが多いです。
皆に愛されなくたって結婚出来たんだから、自分の家族ぐらい大切にしてくれよ!と言いたくなります。もう会わんだろうけど。
私は心の中に大穴が空いたまま生きてるような状態ですが、父親のようにギャンブルとかお酒で埋めないよう、生きている間は色々探して試してみるつもりです。
仕事は失敗続きで呆れられているところはありますが、一生懸命教えてくれようとして下さってるので、やれるところまで頑張れればよいなと思っております。
去り行くものとの思い出
近所にあったお寿司のチェーン店が2月末で閉店してしまいました。
閉められたシャッターには貼り紙がしてあって、「37年のご愛顧ありがとうございました」と書かれておりました。
じ~んとくるものがありますね。
お寿司は今ではスーパーのお惣菜コーナーとかでも買えるようになりました。
人の味の好みやライフスタイルの多様化とか、外食産業は結構生き残りが大変な気がします。
自分の意識の中に存在していたものが急にいなくなると、自分の一部が欠けたような気分になります。
今まで閉店してショックだったお店を思い出してみました。
昔池袋に「キンカ堂」という布地屋さんがありました。
私自身は裁縫とかあまりしないのですが、私が小さい頃は母親が私のワンピースとか、学校用の手提げ袋とか色々作ってくれていたのでよく一緒にくっついて行ってました。
私が小さい頃はジェラート屋さんが中にあって、よくアイスを買ってもらってました。
閉店を知った時は「時代の流れ」みたいなものを感じて寂しくなりましたね。
つい先日映画の『この世界の片隅に』を見に行こうと思って「どこに行こうかな」と検索していた時、お台場の映画館が2月末で閉館すると知ったので、ちょっと遠いですがそこに行きました。
何となく最後の瞬間に立ち会ったような感じにもなりますし、後から「もうないんだよな」と思い返すのも感慨深いですからね。
私は昔から「北海道行きたい熱」(なんじゃそりゃ)があって、ずっと「北斗星」に乗りたかったんです。
一度も乗れなかったことが一生心残りです。
同じ時代に生きているからこの目で見たり、触れられるものがあります。
後悔しないよう、気になってるものとの思い出を増やしていきたいですね。
夢を叶える力
つい先日新聞で、81歳の女性がスマートフォン用のアプリを作ったという記事が載っておりました。
この記事を読んで、私の中の「高齢の方は電子機器に弱い」という勝手なイメージが覆ったと共に、「興味を持ったことを始めるには年齢なんて関係あらへん」と改めて思わされました。
私は20代半ばぐらいに、働きながら週一で漫画の専門学校に通っておりました。
私が受講していたコースは社会人の方が多く、私のように働きながら通っている方がほとんどでした。
が。
私よりみんな年齢が若い方ばかりでした。
一番若い方で、私より10歳ぐらい若い高校生もいらっしゃいました。
正直「自分がこの歳で……。」みたいな引け目があって、若い人が心底羨ましいとも思いました。
漫画を描くのはスポーツみたいに基礎(画力など)練習が必要で、体力もいります。
私は会社から帰って、足りない時間で決められた課題のページ数のストーリーを作らないといけなく、かなり寝不足状態でした。
それでも好きでやってることだから、苦しさはあってもそれを受け入れられるんですね。
本当スポーツと一緒で、実践を何度も重ねてコツを掴んでいくところがあります。
20代だったからあの状況でも体力が持ってたんだなと思います。
今となってはあくせく働かず、のんびり生きたいなと正直思っております。
でも奨学金を返したりしないといけないので、しばらくは忙しく生きてかないとですね。
絵を描くのは年齢に関係なく生きている限り出来ますし、プロでなければ締め切りもないですからね。
好きなことは余暇にやればよかと自分に言い聞かせてます。
サッカーの三浦知良選手、50歳でプロを続けてらっしゃいますね。
私の年齢分ぐらいだと考えると本当尊敬します。
本当にサッカーが好きだから続けられたのと、ど素人の私はワールドカップに思い残すところがあって続けられたのかなと勝手に思ってしまいます。