夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

自己表現が苦手でも

ブログを始めて一ヶ月ちょっとぐらいになりましたが、読みやすい文章を書くのって、ホントに大変だと思っております。
(読んでくださっている方、読みづらくてゴメンなさい!)


私はどちらかというと自己表現が苦手で、学生時代は友人から「落ち着いてる」とか、「大人しい」とか言われておりました。

一時期通っていた漫画家養成スクールの同期生からも、「オタクっぽくないっすね。」と言われたり、就職のための面接の時も淡々としているように見えたのか、「あなたは落ち着いていて、何に熱くなるのか分からない」などと言われたりもしました。


私自身が自分を見る限りでは、ちっとも落ち着いてないし、夕飯作るときにノリノリに音楽聞いてて、勢いつけてフライパン返ししたらおかずが頭に乗っかったんだぞ!(笑)ぐらいのテンションなわけです。


昔から私はどちらかというと絵とか文章の方が気安く出来るところがあり、直接は上手く言えないことは交換日記に書いたりしてました。
先生には毎日その日の出来事とか勉強時間とかを書いて出すノートがあって、言いづらいこともそれに書いておりました。

中学生の時に話しやすい担任の先生がいて、ノートに「ゴールデンウィークにサッカー見に行きました。」と書いて出したら先生も同じ試合を見に行っていて、先生曰く他にも見に行ってる子がいて、その子ともサッカーをきっかけに話せるようになったこともありました。


自分を分かってもらうには努力が必要だと分かりきっているのですが、自信がなかったりすると上手くできないこともあります。

ブログを始めたことは私にとっては清水の舞台から何往復も飛び降りるぐらい勇気のいることでした。
まだこのブログ自体のテーマや記事なんかもまとまってない感じになっておりますが、色々試してよいものにしていきたいです。


f:id:tokIo:20161026000423j:plain
近所に咲いてた花です。天気良すぎて合成みたいですね。(^_^;)

映画『オリヲン座からの招待状』の感想

数日前、深夜にTVで『オリヲン座からの招待状』という映画がやっていて、何となく聞いたことがあったタイトルだったので録画して見ました。


物語の舞台は昭和30年代で、とある夫婦が営む映画館に一人の若者が現れて、夫婦に「ここで働かせてください」と申し出るところから始まります。

夫婦は彼を受け入れることにしますが、妻の方は内心はすぐにいなくなるだろうと思っていました。
しかし、熱心に仕事を覚えようとしている彼を夫婦は評価していきます。

特に夫の方は彼にこれからの映画館の将来を託します。
実は夫は病におかされており(⬅恐らく肺がん)、先がないことを分かってのことでした。



私は昭和の時代感とかが好きで、『always三丁目の夕日』とかも見たことがあります。(少々美化されてましたが……(^_^;))

「昔は職人気質な方の側について、怒られながらも見よう見まねで仕事を覚えてたのかな」と思って見たり、現在上映中の『君の名は。』とは違う『君の名は』という映画がオリヲン座で上映してたのが面白かったです。


宇崎竜童さん演じる職人的な映画館館主は味がありました。宮沢りえさん演じるその妻も、静かに彼を支えていて微笑ましい感じでした。

親父さん亡き後の映画館を支える加瀬亮さん演じる若者と、残された奥さんの付かず離れずの微妙な距離感がこの映画の美味しいところでした。

加瀬亮さんは以前『ありふれた奇跡』というドラマを見てから気になっている俳優の一人です。
私は不器用だけど優しい感じの青年が出てくる話とかが結構好きかもしれないです。


ストーリーについて欲を言えば、残された二人がどうやって映画館を建て直し、平成の世まで続けてこられたのかという描写がもっと欲しかったです。

今よりは娯楽が少なかった昭和30年代から平成まで映画館を続けられたのは、それを乗り越えたいくつものエピソードが二人の間にはあったはずと思ってしまうのです。


でも映画全体は心温まるお話でしたので、機会がありましたら(これから人恋しくなる季節ですので(笑))ぜひ見てみてくださいね。

思い出させるもの

今まであまり時間が取れなかった、部屋の片付けを進行中です。
今日はとにかく溜まりに溜まった新聞を三ヶ月分ぐらい消化しました。


「………、えっ、三ヶ月分!?」

と、普通はなるでしょうな~。



もうそれどころではないです。実は去年の今頃の新聞ですよ。(@_@)

今時新しい情報こそ命の時代に、何と時代錯誤なと笑われてしまいますねん。
行きたいイベントも見たい番組も時すでに遅しですよ。

でも面白いのは、「一年経っても変わらんな~」と思う出来事があったり、今工事が着工している建物などが一年前に「こういう建物作りますよ~」という記事として載っていたりします。

この「新聞追いかけっこ」が衝撃的だったのは、東日本大震災の時でした。

地震が起きてから一年前の新聞を読んだら東北地方の記事とか載っていて、
「まさか一年後にここはあんなになって……」
と思ったら胸が詰まりました。



片付けの方ですが正直、どうしたものかという感じです…。(+_+)
周りに物が溜まってくると「あぁ息苦しい!」となるので、極力物を減らしたいのですが。


処理していた新聞の読者欄にも「片付けられない!」というお悩みが投稿されていて、
「思い出の品が捨てられない」
という方と、
「過ぎた過去は過去として処分すれば、物は減らせる」
という正反対の意見が寄せられておりました。


どちらもよく分かります。

当時は好きだったり必要だと思って置いておいたものでも、いま改めて見返すと、
「何で置いといてるんだ…?」
というものが出てきます。
本とか雑誌の記事の切り抜きとかだと、見直して減らせる部分もあるかなと思います。

ただ私の所持品で一番多いのがこれで、何度も見直した結果今に至るという感じにもなってきているのが現状です。(T_T)


捨てられないものでいうと、人から買ってもらった品物とか、いただいた手紙とか年賀状とかかなと思います。
あとは出先で入った博物館の案内とかそこで買ったお土産とか。

それ以外にも趣味で集めた千代紙だのおもちゃ消しゴムだの、100色色鉛筆だのが棚一杯に入っているという…。
もっと言うと自分で描いた漫画の原稿やら大量のネーム(⬅下書き)やらも捨てられないし…といったところです。



いつか引っ越しをするかもしれないし、はたまた不慮の事故とかであっけなく逝ってしまうかもしれないので、常に身軽にしたいと思いつつも上手くいかないのであります。

一方、もし突然記憶障害になって「私は誰?」となったとしたら、あまりにも物がなさすぎると、自分を思い出すきっかけがないかもしれないと思うこともあります。


私が過去から連続して生きている、という証として物は必要ではありますが、かといってあれやこれやと置いておくと自滅してしまいます。
バランスが難しいところだと日々痛感しております。

お互いを認めることではじまる

先日某番組で、レスリングの浜口京子さんがモデルの男性とデートをするという企画がやっておりました。


京子さんは終始緊張して恥ずかしそうにされており、不器用さ全開でした。
ところが話がレスリングのことになると表情がガラッと変わり、急に凛々しい表情をされておりました。

デートが終わった後、別の日によゐこの濱口さんに(はまぐちつながり?)これまでの恋愛話をされていて、京子さんの不器用さがより一層伝わってきて
「何とか頑張って欲しいな」
と思いました。
(どのようにしたら彼女の強さも不器用さも分かってくれる方が現れるかなーという感じで。)



今週に入って母と些細なことで言い合いになり、「分かり合えないのは辛いな……。もう人生終わらせたい…。」
ぐらいのトーンになっておりました。
血が繋がっていても性格や価値観が違う訳で、当たり前なのだけれど、意見が合わないと距離感のようなものを感じてしまい、母が自分と似たような人だったらこんな思いはしないのかなと嘆いてみたり。


悲観的になっている時に救いになったのが、少し前に母に言われた「写真の切り取り方が上手いね。」という言葉でした。
今まであまり誉められることもないし、不器用なため欠点ばかり目立って、母から「馬鹿」だの何だの言われていたので、その言葉でこんなに気持ちが切り替わるとは思いませんでした。


どんなことであっても、他人に評価されているというのは自信にもなり、生きる希望にもなるのだなぁと思いました。
やはりそういった意味では、自分と似たような人と一緒にいる方が評価もされやすいし、生きやすいのではないかという感じです。

一方で、たとえ似ていなくてもお互いを分かろうとする努力を忘れてはいけないなと反省もしたり。



仕事にも相性があると思っていて、仕事探しに毎日格闘中なので、そんなことを考えてしまいました。

今、この時を大切に

先日、来年の手帳を買いに行きました。
いつもこの時期に買っていて、毎年「1年が早い!」と思います。(^_^;)


初めの方のページをめくると来年と再来年のカレンダーが載っていて、「んぐっ、平成30年!?」ってなりましたよ。
もう再来年は平成30年なんですね~。
とても平静ではいられない。(笑)


今はスケジュール管理なんて携帯で出来るので、手帳を使わない人もおられるのではと思います。


私の手帳の使い方は主に「備忘録」という感じです。
先の予定を書くことはあまりなくて、終わった出来事なんかを書いておく。
例えば旅行でなんちゃらに出かけた、とか家具や家電をいつ購入したかなど。
衣替えや冷暖房機器を出した日付なども書いておく。(そんな人私以外におらんだろう…)

そうすると来年の同じ頃に見返したりすると、
「この時期に衣替えしておくとよいな~」
と参考になったりしております。



私はweb上でブログを始める前からアナログの日記をつけていて、例えば新聞記事で気になった話や意見を切り取って貼っつけて、それについて自分のコメントを書いたり。読んだ本や見た映画の感想なども覚えている限り書いたり。

あとで見返すとたまに参考になったり、「この時の自分は何を言ってんだ。(笑)」となったりします。


今思っていることは、まさに今の自分が思っていることなのだけど、あとから振り返るとタイムカプセルから手紙を掘り返してきた感覚になるのが不思議です。


写真や絵なんかもそうだけど、一瞬一瞬の感情を記録しておくことは大事だなと思います。
目に見えるものももちろんそうですが、言葉なんかもそうではないかなと。

私には今離れて暮らしている祖母がいて、たまに電話で近況など話したりします。
私から話すのは大抵仕事でしごかれてる話がほとんどで(ホント申し訳ない…)、それに励ましのコメントをもらったりする。

あまり考えたくない話ですが、「あと何回こうして話せるかな…」と思うこともあります。
それもあって母にも「今のうちに言いたいこととか聞きたいことがあったら聞いといた方がいいよ。」なんて言うこともあったり。

同じようなことを話していた矢先に叔母(母の妹)が亡くなったこともあり、生きている間に自分の思いを伝えておくのはホントに大事だなと思いました。


あと2ヶ月ちょっとで迎える平成29年ですが、先のことは分からないです。
これから先の生き方について考えないといかんのですが、今はしばらく出来なかったこと(小旅行とか片付けとか?)、とりあえずやれることをやれる範囲でやっていこうかなと考えておるところです。

来年も生きてブログを書いていたら宜しくお願いします。

戦争は終わらないけど

10月に入ってから仕事の引き継ぎに追われ、毎日くたびれぼろ雑巾だった。


14日が最後の出社日だった。

色んな意味で苦しかったから、朝会社に向かう道のりで
「今日が最後なんだーーー」
なんて思うことはなかった。
やり残しがないように頭の隅々を探し回るので精一杯だった。


まさかこんなに早く辞めることになるとは思わなかった。

今回の仕事に就くまで半年ほど就職活動をしていた。働いていることも辛いが、働いていないことも同じくらい辛いということを痛いほど感じていた。

自分はよい人生を選ぶために辞めたと前向きになろうとしても、日中外を歩いていると近所の人から「何でこんな時間に家にいるのか」と思われてる気がしてタイミングを見て家を出たり、応募した会社から次々に不採用の知らせがくるとホントこの世の終わりくらい何も手に付かなくなったりした。


だから働き始めた頃は「ここで頑張らないと」と思っていた。私の将来を案じている親を少しは楽にしてあげられると思っていた。


ところが…

私の前任者が同僚から無視されていた。
多忙な職場だが、その方は私よりも仕事が出来る方で、食事のとれない私の体調を気遣ってくれたりして、そんな方が不遇な目にあっている理由が全く分からなかった。

その方が辞められてから、仕事と一緒に「無視の対象」という立場が引き継がれた。
今までそんな思いをしたことは一度や二度ではなかったから、何とかやりすごそうと努力した。

それでも毎日私の欠点ばかり目をつけて、毎日のように呼び出されては一対数名で闘うしかなかった。


味方は誰もいなかった。
そもそも自分と似ているタイプの人が誰もいなかったため、皆私に非があるという目で見ているのがよく分かった。


でも幸い仕事が忙しすぎて、そういう態度を気にする余裕なんてなかった。
それでも家に帰ると辛かった時間ばかりが思い出され、それを打ち消す手段もないまま毎日忙殺されていた。

仕事自体は大変だったが、大変であった分、抱えていた件が解決に向かったりすると、それだけで「あぁ、よかった」という変な達成感があった。

人間関係の悩みなんてどこでもある話だ。
それよりも目の前にある課題に一生懸命になる方が大事だった。


でも毎日何を見ても笑えなくて、時間がないから気持ちを切り替えられないまま朝がきて、毎日ただ働くだけの機械になっていた。

こんなんで辞めるなんて自分に甘いし、忍耐が足りないと分かっていた。
でも心の中ではすでに限界に達していた。



最後の出社だったので、挨拶をしてまわった。
私を無視していた人々は最後まで態度は変わらず、こちらが渡したお礼の品を返してきた。

分かりきってはいたけど、悲しくないといえば嘘だし、最後まで「大人げない」と思った。


全員が敵だと思っていた。
皆私が悪いと思って、毎日冷たい視線を送ってきたからだ。


だけど全員が敵ではなかったと知った。

挨拶をしに行って、ホントに残念だと思ってくれている人も数人いて、表情を見るだけで分かった。

私が作業している部屋から出たタイミングで声をかけてくれる人もいて、
「大変だったね。次はいいところが見つかるといいね。」
と言ってくれる人もいた。

少し前に辞める話をした方からは思わぬプレゼントをいただいて、帰ってから開けてみたらお菓子とお守りが入っていた。


忙しい中、私のためにお守りを買いに行ってくれたのだと思うと本当に泣けてきて、こんなダメで迷惑かけ通しの私でも、感謝して送り出してくれれる人がいることが嬉しかった。
辛かった職場だったけど、それだけではなかった。



私を無視していた同僚に今まで何度もひどいことを言われ続けた。
話を聞いているとその根本にあるのは、大量の仕事に対してその状況が改善されないことに対する職場への苛立ちがある。

そもそも前任者ではなく私に関していえば、私が不器用なため仕事がその方達より終わるのが遅く、
「皆頑張っているのにどうして終わらないの!」
という考えからだった。

その度に私は、
「人それぞれ得意不得意があって、皆が皆機械のように同じ結果が出せる訳ではない。」
と反論していた。


私の性質が彼女達と全く合わなかったのもあるけど、普段の態度を見ていると、日頃の過酷な業務のストレスを誰かにぶつけたいだけのようにも思えた。


まさに「戦場」と呼べるに等しい職場だった。


戦争は人々の人格をも変えてしまう。

普段なら「人を殺すなんて…」と思っている人でも、戦地に出ればやらなければ自分がやられるし、周りの人間が人を殺していたら、「他の人もやっているのだから」とためらいすらなく人を殺せるようになる。


本来であれば「こんな態度は相手が傷つくだろう」と思うような人でも、周りも言ってるし、「共通敵」だから何をしてもよいだろうという考えになる。



戦争だからそうなるのは仕方ない…。
と思いたくないのが、私である。

私はアウシュビッツ体験をしたフランクルの本を読んだことがあるが、その中で人を殺すことが当たり前だったあの環境でも、人として変えてはいけない性質を持ち続けた人がいることを知った。
(以来フランクルは私の心の支えになっている。)



個性を持った人間という存在である以上、人間同士の争いがなくなるはことはないだろう。

今生きている世の中は、使える人間は酷使され続け、使えない(と見なされた)人間はガス室(=死に値する何か)に行かされるような世の中ではないかと思える日々だ。

そんな世の中でも「自分とはどういう人間か」という意思を持ち、どんな環境でも冷静に見つめられる態度を維持していきたいと思う。

漫画家になれなくても

今日10月9日は誕生日ということで、私の簡単な生い立ちと、今、これからについて書きたいと思います。


【幼少期】
小さい頃は健康そのもので、よく食べよく動き回っておりました。あまり大病も患うことがありませんでした。

当時はまだDVなんて言葉は普及しておりませんでしたが、私が生まれた時からすでに父親家庭内暴力が日常的に行われておりました。
それまで健康体だった私が、急に原因不明の微熱が続き、何ヵ月か幼稚園を休むことがありました。


【小学生~高校生】
「えっ、こんなざっくりくくっちゃってエエんかい?」
っていうくらい、この時期は辛いことしかなく、今振り返っても楽しかったことなどあらずです。


もともと幼稚園までは比較的誰にでも声をかけ、仲良くなろうとするタイプでした。
友達100人作るつもり(笑)で期待に胸を膨らませて入学したのに、入学早々男女からそれぞれにいじめにあい、学校の勉強にもついていけなくなり、段々行くのが辛くなりました。



家に帰れば帰ったで安らげる環境ではなく、唯一の救いは漫画でした。

今では「ジャンプ」とか少年漫画が好きですが、当時読んでいたのは「なかよし」とか「りぼん」とか少女漫画が多かった気がします。
読むだけでなく、この頃初めてノートに自分の漫画を描いておりました。


よくプロの人は10代とかでデビューしていたりするので、高校生の時は「頑張らないと」と奮起していましたが、なかなか破綻しないストーリーが作れず、下書きで終わっている状態でした。
(その頃描いてた漫画のストーリーが、自信のない男の子が走る能力を認められて生き生きしてくる、というベタな内容。(笑))


高校も後半になってくると進路を決めなくてはならなくなりました。

心の内では「絶対漫画家になりたい!」と思いつつも、原稿すら完成させられず、絵もヘタクソで全く自信がなかったので、バイトをしながら目指すという選択はあまりにもリスクが高くて出来ませんでした。


高校は公立の進学校だったので、とりあえず大学に行って、普通に就職して、働きながら趣味として漫画を描こうと思っておりました。



【大学生】
私は社交的なタイプではないので、ほとんど友人はいませんでした。
でも同じ学部を志望しているためか、似たようなオーラを出している人がいて、そういう人とは授業以外の空き時間に近くを散歩したりして遊んでました。


専攻している学問は社会学とかその周辺の分野で、
これが非常に性に合っていて、それが大学に行ってよかったなと思った理由でもあります。

取り扱うテーマは身近な社会問題とかで興味が尽きず、今でも関心がある分野であったりします。


ずっと大学に居残っていたい気分でしたが、そういうわけにも行かず、周りと同じように就職活動を始めました。


やはりその時も「漫画家になりたい」という気持ちは消えてはいなかったのですが、それでもちゃんと働いて親を安心させなくてはというのもありました。

ただ、
「どういうところで働いて、どういうふうになっていきたいか」
と面接等でしきりに聞かれても答えられず、
「あなたは一貫性がない」
と言われて落ち込んだりもしました。


今色々なところで働いてきて思うのは、
「働いた経験のない人が、どういう仕事が向いているのかわかるのかぇ?」
ということです。
内から見る企業とは、お客として利用しているそれとは全く異なるものだから、実際に働いてみないと
分からんだろうというのが正直なところだ。


【学卒後】
ここから先はこれまで書いたブログで簡単にふれているところです。
新卒で入った会社は長時間労働で身が持たず、1ヶ月という早さで辞めることになり、その後は転職をくり返してるような状態です。


実は社会人になっても夢を諦めきれず、働きながら
漫画の専門学校に通っていた時期もありました。

でもプロの編集者の方から、
「あなたの年齢でこの画力?」
と自分でも分かっていることを言われ、その辺りからもう仕事としての「それ」は諦め時かなとも思っておりました。



最近では漫画を描く意欲とか沸いてこなかったり、とにかく画力があまりない上、下書きするのもかなり時間がかかるので、その活動から遠ざかりつつあります。

世の中には働きながら掛け持ちで作品を作られている方は一杯おられると思います。

そういう方々と比べると私は自分自身に対して甘いところがあって、それ故にいつまでも無駄に時間を過ごしていたのだろうと思います。

つい最近まではずっとそのことで自身を責め続けていましたが、この歳になってようやく落ち着いてきました。


もう「夢は夢のまま」でもいいや。

たまに好きなもんでも描いて誰かに見てもらえればよいか。


そう思えるまでに相当苦しみましたが、そんなアホな人生を送っている人が書いているブログを読んで

「私はこうならないようにしよう」

と反面教師的に捉えてもらえればというのもあり、このブログを始めたわけでもあります。


【これからについて】
今心から願うのは、こんな自分でも役に立つところがあって、そこで何らかの結果を出せたらということです。


「漫画家になれないことが死ぬほどつらい」

とずっと思って生きていたところはありますが、絵を描くことは私にとっては呼吸をすることと同じくらいなくてはならないことなので、生きている間は継続していくつもりです。


この世には働くことや生きることに真剣で、迷って悩んでる人が他にも沢山いる、ということを心の
支えにこれからの余生を頑張っていけたらと思います。


f:id:tokIo:20161009090957j:plain