夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

人生を苦病まないために

フジモトマサルさんの『二週間の休暇』という本を図書館で借りてきて読んだ。


元々フジモトさんの作品は気に入っていた。
万人が入りやすそうな絵柄から入っていくと、そこには独特な世界観が広がっていて、そこが現実なのか作り物なのか分からなくなる感じがある。


この作品の読み始めも、一見ある女性の「日常の」ワンシーンと思いきや、仕事で残業している女性の「何もかも忘れて休みたい」願望を叶えた形の「異世界での」体験の話になっている。



何気なく借りた本だけど、読んだ後は「自分も無理してるんだろうな」と思った。


つい最近会社で自分の欠点をかなり指摘されて、それは「社会人」として生きていくためには必要なことだと理解はしているし、自分を客観的に見る機会にはなったと思う。


ただ、自分の中の自信とか、生きる希望というのが失われてしまっていると改めて感じた。



私が仕事をするのは生活のためである。

前職が精神的にも肉体的にも限界なところがあったので、本当は次に働くまでに少し休みたいという気持ちがかなりあった。


だけど休んでいられるほど蓄えはないし、親は病院に通院していてお金がかかるため、私が休んでいる場合でないと思った。

「生活していくため」と自分に言い聞かせて、誤魔化しながら生きていると思う。
頭では理解していても、本心のところでは常にやりきれない感じを抱えている。


最近は仕事から帰ってきたら、疲れきって無意識に寝てしまう。
私は昔から現実で嫌なことがあるとすぐに眠気が来て寝てしまうので、ある意味で異世界への逃亡と言えるかもしれない。



仕事以外にやりたいことは山ほどある。

やりたいことをして生きている人の方が、人生での充実感も違うし、色々な意味で健康的にいられる気がする。


最近では、好きなものにですらやる気が湧かないという状態が何年も続いている。
もし『ドラゴンボール』の「精神と時の部屋」があったら、そこに入って漫画描いたり、本を読みまくりたいと何度も思ったことか。
そうしたら少しは元気になる気がする。



ネットでフジモトさんの作品を検索してたら、彼が二年前に病気でお亡くなりになっていたと知った。
ショックだった。



人の人生なんて、長いようで短い。

やりたいことを後回しにしていると、突然自分が死ぬことになったら、動かなくなった体で絶対後悔すると思う。
私の身内には若くして亡くなった人がいるので、細々と長生きするより、自分が思ってることを一つでも叶えてから死にたいと思う。


どうしたら後悔しない人生を送れるかは分からない。
自分の気持ちに正直に向き合うと、仕事に行くのが余計に辛くなってしまう。


だけど「自分」から逃げてはいけないと思う。

私は一つのことに頭が一杯になると他のことが考えられなくなるけど、自分を生きるのは自分しかいないし、何が一番自分を「生かす」のかも知っているはずだ。


今私のように生きることに迷って辛い思いをしている人には、自分ととことん向き合い、少しでも希望を持って生きていって欲しいと思う。

腹を割って話すことの大切さ

母がメロンを買ってきてくれたのをぱっこり切って食べました。

母いわく買う時かなり固かったらしいので、しばらく寝かせてから食べようか悩み、結局食い気に負けて(笑)食べることにしました。

実際切ってみて、中身が意外と熟していて驚きました。


外からは分からないもの、開けてみないと分からないものってあるのではないかと思います。




先週職場で自分の至らないところを先輩からかなり言われて、仕事に行くのも、生きるのすらも辛いと思っておりました。

その後先輩が話す時間を取ってくださり、自分の欠点を客観的に見るとどう見えるのかについて聞いたり、お互いの思っていることなどを話し合いました。



私は不器用で一つのことで頭が一杯になると他のことが考えられなかったり、人の状況を察するのが苦手で、そういう性格がこれまでのあらゆる場面で影響を及ぼしたりしていました。


そういう姿は端からみれば「自分勝手」に映るようで、大抵の人は敢えて指摘することもなく関わりを避けるか、その態度に対して怒りをあらわにしたりします。


私の方は「何か気に障ることをしたんだろうな」と思っても、原因が分からないので、毎回自分を全否定してやり過ごしてきました。



私は自分の欠点を自覚していて、なぜそういう状況になったかを自分で語れる範囲で先輩に伝えました。
先輩からの指示も、主語が不明だったり抽象的なものは理解しづらいと話しました。


先輩に「正直こんな仕事出来ないと思わなかった」と思われても、正直に思っていることや困難な状況を伝えて、この仕事が無理ならはっきりさせるべきだと思いました。



先輩と仕事終わりに何時間か話して、先輩がこちらがどうやったら上手く仕事をやっていけるか考えようとしてくれているのが分かりました。

私は研究をしたり、ひたすら何かを作るようないわゆる「個人プレー」を得意としているところがありますが、それでも会社という「チームプレイ」で働く環境ならば、自分の価値観だけではやっていけないのだと改めて感じました。



先輩は私と仲良く、というか良好な関係で仕事を続けていきたいと考えていらしてて、言わなければいけないことは厳しくても言うべきと思っていらしたので、私も先輩からの歩み寄りに応じるべきだと思いました。



人間関係が上手くいかなくなる時とは、大抵お互いの認識のズレとか、相手に言いたいことが充分伝わっていないことによる行き違いがあるかと思います。

私は比較的曖昧な表現とかの理解が弱かったり、伝えるべきことをあまり表に出していない(自分では出してるつもり……)ようなので、より問題を抱えやすいのかと思います。



また気づかないところで何かやらかすのではないかと気が気ではありませんが、何とか生きております。


人間は複雑で、面倒で、嫌になることの方が多いです。
本心をぶつけ合えば、関係が悪化して取り返しがつかない仲になることなんて日常茶飯事ですが、相手を理解しようとして誠実に接する姿勢は保っていかねばと思っております。

心身の風邪

風邪をひきました。

喉の痛みに始まり、鼻がずるずる、咳はごほごほ、頭はずきずき、微熱に関節痛でもうたまりません。
風邪薬の箱に書いてある症状を見事に網羅しております。

幸い寝込んではおらず、会社には出社しておりました。



ただ今週は風邪よりも辛い一週間でした。

今の職場に勤めて3ヶ月になりましたが、仕事を教わっている先輩から、ひたすらダメ出しをされておりました。

私は一つのことに集中すると周りが見えない質で、私が行う全ての業務について指摘されました。



連休明けは忙しく、新しく覚える仕事も少しずつ増え、全てが上手く回らなくなってきていると感じ始めた頃でもあります。

その分周りの方に助けてもらってるところはありますし、入社数ヵ月であまり戦力になっていないのも分かってました。

だから少しずつでも、出来ることを増やして、回していかないとと思っていた矢先でした。



先輩は私の仕事具合をよく確認して下さり、私のこの不器用な質を分かって下さっていたのだと思い込んでおりました。

私もそう考えていた時点でかなり甘えがあったのかもしれません。



仕事は「素早く」、「臨機応変」にこなして当たり前。
どういうタイプの人間が仕事をして、こういう部分は得意でも、こういう部分は苦手とかは関係ない。



私は自分の欠点を痛いぐらい分かっているつもりで、それを余すことなく他人から言われると、本当に逃げ場がなくなります。
それに、先輩から言われて当然のこともあれば、矛盾を感じることもあります。

言った方は自分が正しいことを言っていて、相手がどう受け止めようと言われて当然と思っているのかもしれません。



言われた私はもう救いようのない心理状態です。

何をしていても言われたことが頭を離れず、本を読んでいても同じ文ばかり読んで頭に入らず、エレベーターに乗っても自分の降りる階を押し忘れて、降りられずに過ぎてしまいます。



家に帰ると、私が「この世の終わり」みたいな顔で帰ってくるので、母は心配してこちらの顔をちらちら見てるのが分かります。

母は私が沈んでると明るくしようと努めてくれますし、私も心配をかけさせたくないのですが、表情は沈んでいて、やりたいことも手につかず、茫然としてる時間が増えました。



会社で働いて賃金をもらう以上は、「会社のルール」に従うしかないとは思います。

でも働いているのは機械でなく人間だから、完璧にいかなくて落ち込んだり、自分を責めて病んでいく人もいます。


心身ともに風邪を引かないためには、自分自身に「耐性」をつけないと、厳しいこの世を生きながらえることはできないのかもしれません。

ブログは料理のようなもの

「お客さん増えた?」


先日母と話していていきなりこの質問をされて、一瞬「ん?」となった。

仕事は忙しくなってるから、お客さんが増えたといえば増えたのかもしれない。


「何の?」


と聞き返すと、どうやら私のブログの話だった。


「いや、増えてないよ。」



私がブログを始めた頃に母もツイッターを始めていて、母はよくそこで知り合った人の話をしている。
その話の流れで、自分のブログは全く人気がないよという話は何度かしたことがあった。


私がブログを初めてからお客さんは増えていない。

普通に利益をとって運営してるなら、とっくに潰れている個人商店だ。




ブログについて常々「料理」に似ていると思うことがある。


ブログの完成度でいえば、プロ級の腕前の人から、普段料理をしたことがない人が家族のためにやってみよう的なレベルの人がいる。

流行っているお店(ブログ)を見て、普段は食べる専門(ブログを読む専門)の人も、自分も店を構えて作ってみようと試みる(ブログを書いてみる)。



実際にお店を始めてみると、上手くいく人ばかりではないと分かる。
脱サラしたくて勢いで起業してみたものの、お客さんも増えないし、売上も芳しくない。


現実に失望してひっそりとお店をたたむ(ブログをやめる)人もいるだろう。

ネットには「始めてみるとこんないいことがあるよ」という情報はあっても、「上手くいかない場合もある」という情報は少ない。

料理を全く作ったことがなく、手探りで完成させたような料理(ブログ)は知名度もなければ、食してくれる人もいない。
知り合いがいれば振る舞う程度だ。



どうすればより多くの人に食べてもらえる料理になるか。

それには、
・多くの人が目につくところに店を構える
➡ブログを更新する回数を増やしたり、人がよく読みそうな時間に記事をあげる

・ビラ配りや営業回りをする
➡同じようにブログを書いている人や知り合いに挨拶に行き、ブログを知ってもらう

・有名店や有名ガイドなどに紹介してもらう
➡アクセス数の多いブロガーの人に話題にしてもらったり、ツイッターなどで拡散してもらったり、有名サイトでブログの記事を取り上げてもらう



ざっとあげるとこんな感じだろうか。

正直どれもしたことがない。
なぜかと聞かれれば、自分から売り込むのが得意でないというのもあるけど、どうしても全てが「仕事の延長」に思えるからだろう。



自分のブログを読んでいる方には、その方の時間を使わせてしまっているので、腕前を上げて少しでも「参考になった」とか「面白かった」と思ってもらえるの記事が書けるのが一番である。

ただどうしてもアクセス数とか読者数を意識して記事を書いていると、プレッシャーがかかり思ったような記事が書けなくて、書いているのか書かされているのか分からなくなる。

当ブログは「今必要とされてないブログ」になってしまっているけど、そういうプレッシャーが少ないのは気楽といえばそうかもしれない。




自宅の近くに家族経営的なラーメン屋がある。

私はそこの「洗礼されてない昔ながらのラーメン屋」っていう雰囲気が何となく気に入っていて、
チンゲン菜だらけの担々麺が好きだったのだが、
母が、「あの店はチンゲン菜ばっか入れて~。」と気に入ってなかったらしく、あんまり行かなくなってしまった。


こういう洗礼されてない感じの店は真っ先になくなっていくなと思う。

ブログも「素人感」がある整ってないような人のブログは検索にも引っ掛からず、誰にも読んでもらえず消えていくのだろうと思う。



ブログをやってみて感じたのは、ネットの世界が広いようで意外と狭いということだ。

検索結果はアクセスが多いものをあげるから、どうしても多数の意見に偏る気もするし、検索にかからない情報を知るのも一手間かかる。



私は出先で食事する時、お店選びは冒険だとおもっている。
どうしても人は行列が出来る店が気になるし、おいしいと思うだろう。

確かにそういう情報に引っ張られる時もあるけど、「自分が何を欲しているか」に忠実に、食べたいものを食べ、作りたい料理を作ればよいと思う。



このブログは、食べてくれた(読んでくれた方)が食あたりを起こしそうな微妙な料理(記事)が多いが(笑)、お店を探している時に偶然見つけて、「おいしかった」と思ってもらえれば万々歳である。


正直ブログを続けるか悩んでいる状態である。
たまにふらっと店に来て、「あの潰れそうな店、まだやってるわ~。」と思っていただければと思う。

自分の至らなさを受け入れる強さ

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連休明けで多忙な一週間だった。


朝起きると、スマートフォンに身に覚えのないサイトの履歴が残っていたりして、一瞬「遠隔操作」を疑ったりもしたが、自分が無意識に触っていただけだと思った。



昨日は仕事の忙しさが今までで一番だった気がした。

朝も少しずつ早めに出社するようになったが、以前の職場みたいに朝、昼、晩と仕事をするような生活には二度と戻りたくないと思った。



最近読んでる本の内容が、
「一見普通に見える人がなぜ逸脱した行動にでるのか」
みたいな内容で、その中の「完璧主義の人が陥りやすい状態」についての言及がまさに自分のことかと思った。



どうやって自分が完璧主義的になったか考えてみた。

例えば、私が親から買い物と洗濯と風呂掃除を頼まれたとする。
買い物と洗濯はしたけど、風呂掃除はまだだった。

単に忘れただけかもしれないし、お腹が急に痛くなって出来なかったのかもしれない。


親には買い物と洗濯はしたけど、風呂掃除はしてないと話す。


そしたら返ってきた言葉は、
「何でやってないの?遊んでたの?」


買い物と洗濯をしたことは全く評価されない。
出来なかったことだけ責められる。


そうするともっと認められたくて、今度は頼まれていないゴミ出しやら夕飯の支度やら、「やり残し」がないように徹底的にやらないと気が済まなくなる。



完璧主義になりやすい人は、誰かに認められる経験がなかったり、自分に自信がない人ではないかと思う。

長時間労働で自己破壊的に働いてしまう人は、自分に高いハードルを課すことで、それが達成した時にえられる達成感や、結果によって評価されることで自分を満たそうとするのかもしれない。


それが上手くいっている間はいいものの、頑張っても上手くいかなかったり、一向に評価されなかったり、自分みたいに破壊的に働かなくても幸せそうにしてる人を見たりすると、「何か」が切れて病になったり自ら死を選んだりしてしまう。



自分に「頑張らなくてもいいんだよ」と言えない。
駄目な自分が許せない。
人生に汚点をつけたくない。



今自分が苦しい状況にいるのに、ずっと苦しい環境に留まろうとしてしまうところが自分にはある。


今苦しい状況でも、頑張って続けていればきっと誰かが分かってくれる。
己を犠牲にして、睡眠時間を削り、飯を食べずに自分を奮い立たせて膨大な量の仕事に向き合う。


評価されるどころか、露になるのは自分の欠点ばかり。
いつも仕事の出来る人と比較して、「何で自分だけ出来ないんだろう」と自分を責める。
上手くやれる人ばかり見て、劣等感を募らせる。


こちらから精一杯挨拶しても周りには無視される。

辛い毎日で心は限界なのにまだ続けてる。


「付き合いが長くなれば、お互いのことが少しずつ分かってきて打ち解けられるかもしれない。」

「続けていれば、仕事のコツのようなものが掴めて、評価してもらえるかもしれない」



仕事を辞めてみて、続けていればどうにかなる問題ではないと分かった。

自分には合わなかったんだ。
だから結果が出なくても仕方がないのだ。
この場所で幸せになれる人もいるけど、自分は違った。



今となっては辞めてみてよかったと思う。

「そこに行かなければよかったか」と聞かれたら分からないけど、そこで自分に共感してくれた人もいて、辞める時にそれが分かったのも忘れられない思い出になると思う。



もし完璧主義的な方で、辛い環境からなかなか抜け出せないでいるなら、一度そこから距離を置いてリセットするのも一つの方法かもしれない。

そうしたら自分の至らないところも受け入れて生きる力をもう一度持てるかもしれない。

自由と責任のはざま

連休終わってしまいましたね。

休みは結局借りてきた本を読んだり、溜まった新聞を消化したり、ふとん干したりしてました。


連休は嬉しいのですが、休めば休むほど月曜の朝がかなり鬱々としますね。
毎日胃腸が辛くなる日々が帰ってきて、朝から「気持ち悪~」となりました。


寝てる間は何も考えなくて済むのがラク。
でも起きると「自分」が起動して、あらゆる現実が迫ってくるーーー。
この瞬間が一番辛かったりする。


大人になると、抱えている現実のデータがどんどん増えたり複雑になって、起動する時にエネルギーがいります。
パソコンとかもデータ容量が増えてくると、起動に時間がかかるみたいな感じに近いでしょうか。



小学校高学年の時に友人が、
「早く大人になりたい。」
と言っていたことがあります。

早く自立したかったのかもしれないですし、彼女は 子供が好きだったので、早く子供が欲しかったのかもしれません。



私は「ピーターパンなんちゃら」とか「モラトリアム」と言われるくらい、「大人になりたくない」と思ってました。


「大人になってよかった」と思える要素は何でしょうか。

飲酒やタバコが吸える(⬅私は吸わないですが)とか、稼いだお金が自由に使えるとか、とにかく「自由」をあげる方が多いかもしれません。
それと引き換えに「責任」もついて回ってくるのが常です。



私は年齢が30を過ぎた今でも、食玩とかガチャポンのようなものが好きですし、新幹線とか電車系のグッズとかが好きで、「どこの少年や。」と言われそうなやつなのです。


年を取るとそういうものって、何か「いい年して……」っていう目を気にしてしまいます。
年配の方で「少年ジャンプ」を読んでる方って、あまり見かけない気がしますね。


私は何となく「大人の方が不自由じゃん?」と思っておりました。
「大人」ならこうあるべき、みたいなものを求められてるからでしょうか。



でも、周りが思うような「べき」を24時間貫いているのも辛いですね。
誰しも時には、「自分がありのままにいられる状態」を生活の中に5分でもいいから取り入れないと詰まりますわな。

運命の人とはどんな人か

今、毎週土曜日に『ボク、運命の人です。』というドラマがやっております。

私は先日出先のTVをつけた時にやっていたのを見てから、所々合間に見たりしてます。


トーリーは30歳ぐらいの独身男性の前に謎の男が現れて、ある女性と彼との間に出来た子供が地球の未来を救うと言われ、見ず知らずの彼女に彼がアプローチをするといった筋らしいです。



彼が初対面の彼女の前に現れて、「ボク、運命の人です。」を連発して彼女から不審がられてますね……。

「そりゃそうだろう。」(^_^;)
と毎回ツッコミながら見たりしております。


でも、人と人が親しくなる最初の「きっかけ」って結構難しいものがありますよね。
漫画のおはなしを練る時も、最初って大事な意味合いを持つ一方で、作り物ですら考えるのが難しかったりします。



ドラマで主人公は営業の仕事をしている設定ですが、営業活動に例えて上司から、
「興味のない人に無理やり売り込むのは押し売りだ」
なんて言われるシーンがありました。


確かに営業活動は「欲しい」と「全く」思っていない人に売り込んでも、効果は全くといっていい程、期待出来ないと思います。

しかし、少しでも「欲しい」かもしれないと相手が思っていたら、脈がないわけではないという話です。


昨日見た回では、最後に彼が彼女に「自分のことを
嫌いでないか」を確認していました。
「嫌い」と言われれば、アプローチを諦めるつもりでした。


「嫌いではない」
と彼女から言われて、彼は舞い上がっていました。


あんなに嫌がっていた彼女が、彼との会話に応じるようになっていました。
一体彼女の中で、何が起きたのでしょう。


やはり「押し売り」でも、毎日目の前に現れて話しかけられたら、気持ちが傾くのでしょうか。




そもそも「運命」って何でしょうね。

私が思うに「運命」とは、何かに向かっている時は気づかないけど、ある到達点に辿り着いて初めて、「運命」だと感じるものだと思います。
「縁」も同じようなもんですよね。


今回のドラマで言うならば、

気がつくとある場所にいて
気がつくと彼女を見ていて、
気がつくと彼女に話しかけていてーー。

誰かに指示されるわけでもなく、相手も気がつくと同じ事をしている。



私が小学生の時に、席替えのくじ引きで何回も隣の席になる男の子がいました。
彼とは林間学校の肝試しでペアになったり、大学時代のバイト先が一緒だったりしました。

でも、まともに話したことがありませんでした。



今は物理的な空間だけでなく、ネット上などの場で不特定多数の方と同じ「場」を共有することも増えました。

同じ境遇にいるだけが「運命」ではなく、自らの行動などの働きかけがなくては、つながりは生まれてこないのだと思います。


私は自信がない人間なもんで、自分の「押し売り」なんて到底出来ない…。(苦笑)