夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

心身の風邪

風邪をひきました。

喉の痛みに始まり、鼻がずるずる、咳はごほごほ、頭はずきずき、微熱に関節痛でもうたまりません。
風邪薬の箱に書いてある症状を見事に網羅しております。

幸い寝込んではおらず、会社には出社しておりました。



ただ今週は風邪よりも辛い一週間でした。

今の職場に勤めて3ヶ月になりましたが、仕事を教わっている先輩から、ひたすらダメ出しをされておりました。

私は一つのことに集中すると周りが見えない質で、私が行う全ての業務について指摘されました。



連休明けは忙しく、新しく覚える仕事も少しずつ増え、全てが上手く回らなくなってきていると感じ始めた頃でもあります。

その分周りの方に助けてもらってるところはありますし、入社数ヵ月であまり戦力になっていないのも分かってました。

だから少しずつでも、出来ることを増やして、回していかないとと思っていた矢先でした。



先輩は私の仕事具合をよく確認して下さり、私のこの不器用な質を分かって下さっていたのだと思い込んでおりました。

私もそう考えていた時点でかなり甘えがあったのかもしれません。



仕事は「素早く」、「臨機応変」にこなして当たり前。
どういうタイプの人間が仕事をして、こういう部分は得意でも、こういう部分は苦手とかは関係ない。



私は自分の欠点を痛いぐらい分かっているつもりで、それを余すことなく他人から言われると、本当に逃げ場がなくなります。
それに、先輩から言われて当然のこともあれば、矛盾を感じることもあります。

言った方は自分が正しいことを言っていて、相手がどう受け止めようと言われて当然と思っているのかもしれません。



言われた私はもう救いようのない心理状態です。

何をしていても言われたことが頭を離れず、本を読んでいても同じ文ばかり読んで頭に入らず、エレベーターに乗っても自分の降りる階を押し忘れて、降りられずに過ぎてしまいます。



家に帰ると、私が「この世の終わり」みたいな顔で帰ってくるので、母は心配してこちらの顔をちらちら見てるのが分かります。

母は私が沈んでると明るくしようと努めてくれますし、私も心配をかけさせたくないのですが、表情は沈んでいて、やりたいことも手につかず、茫然としてる時間が増えました。



会社で働いて賃金をもらう以上は、「会社のルール」に従うしかないとは思います。

でも働いているのは機械でなく人間だから、完璧にいかなくて落ち込んだり、自分を責めて病んでいく人もいます。


心身ともに風邪を引かないためには、自分自身に「耐性」をつけないと、厳しいこの世を生きながらえることはできないのかもしれません。

ブログは料理のようなもの

「お客さん増えた?」


先日母と話していていきなりこの質問をされて、一瞬「ん?」となった。

仕事は忙しくなってるから、お客さんが増えたといえば増えたのかもしれない。


「何の?」


と聞き返すと、どうやら私のブログの話だった。


「いや、増えてないよ。」



私がブログを始めた頃に母もツイッターを始めていて、母はよくそこで知り合った人の話をしている。
その話の流れで、自分のブログは全く人気がないよという話は何度かしたことがあった。


私がブログを初めてからお客さんは増えていない。

普通に利益をとって運営してるなら、とっくに潰れている個人商店だ。




ブログについて常々「料理」に似ていると思うことがある。


ブログの完成度でいえば、プロ級の腕前の人から、普段料理をしたことがない人が家族のためにやってみよう的なレベルの人がいる。

流行っているお店(ブログ)を見て、普段は食べる専門(ブログを読む専門)の人も、自分も店を構えて作ってみようと試みる(ブログを書いてみる)。



実際にお店を始めてみると、上手くいく人ばかりではないと分かる。
脱サラしたくて勢いで起業してみたものの、お客さんも増えないし、売上も芳しくない。


現実に失望してひっそりとお店をたたむ(ブログをやめる)人もいるだろう。

ネットには「始めてみるとこんないいことがあるよ」という情報はあっても、「上手くいかない場合もある」という情報は少ない。

料理を全く作ったことがなく、手探りで完成させたような料理(ブログ)は知名度もなければ、食してくれる人もいない。
知り合いがいれば振る舞う程度だ。



どうすればより多くの人に食べてもらえる料理になるか。

それには、
・多くの人が目につくところに店を構える
➡ブログを更新する回数を増やしたり、人がよく読みそうな時間に記事をあげる

・ビラ配りや営業回りをする
➡同じようにブログを書いている人や知り合いに挨拶に行き、ブログを知ってもらう

・有名店や有名ガイドなどに紹介してもらう
➡アクセス数の多いブロガーの人に話題にしてもらったり、ツイッターなどで拡散してもらったり、有名サイトでブログの記事を取り上げてもらう



ざっとあげるとこんな感じだろうか。

正直どれもしたことがない。
なぜかと聞かれれば、自分から売り込むのが得意でないというのもあるけど、どうしても全てが「仕事の延長」に思えるからだろう。



自分のブログを読んでいる方には、その方の時間を使わせてしまっているので、腕前を上げて少しでも「参考になった」とか「面白かった」と思ってもらえるの記事が書けるのが一番である。

ただどうしてもアクセス数とか読者数を意識して記事を書いていると、プレッシャーがかかり思ったような記事が書けなくて、書いているのか書かされているのか分からなくなる。

当ブログは「今必要とされてないブログ」になってしまっているけど、そういうプレッシャーが少ないのは気楽といえばそうかもしれない。




自宅の近くに家族経営的なラーメン屋がある。

私はそこの「洗礼されてない昔ながらのラーメン屋」っていう雰囲気が何となく気に入っていて、
チンゲン菜だらけの担々麺が好きだったのだが、
母が、「あの店はチンゲン菜ばっか入れて~。」と気に入ってなかったらしく、あんまり行かなくなってしまった。


こういう洗礼されてない感じの店は真っ先になくなっていくなと思う。

ブログも「素人感」がある整ってないような人のブログは検索にも引っ掛からず、誰にも読んでもらえず消えていくのだろうと思う。



ブログをやってみて感じたのは、ネットの世界が広いようで意外と狭いということだ。

検索結果はアクセスが多いものをあげるから、どうしても多数の意見に偏る気もするし、検索にかからない情報を知るのも一手間かかる。



私は出先で食事する時、お店選びは冒険だとおもっている。
どうしても人は行列が出来る店が気になるし、おいしいと思うだろう。

確かにそういう情報に引っ張られる時もあるけど、「自分が何を欲しているか」に忠実に、食べたいものを食べ、作りたい料理を作ればよいと思う。



このブログは、食べてくれた(読んでくれた方)が食あたりを起こしそうな微妙な料理(記事)が多いが(笑)、お店を探している時に偶然見つけて、「おいしかった」と思ってもらえれば万々歳である。


正直ブログを続けるか悩んでいる状態である。
たまにふらっと店に来て、「あの潰れそうな店、まだやってるわ~。」と思っていただければと思う。

自分の至らなさを受け入れる強さ

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連休明けで多忙な一週間だった。


朝起きると、スマートフォンに身に覚えのないサイトの履歴が残っていたりして、一瞬「遠隔操作」を疑ったりもしたが、自分が無意識に触っていただけだと思った。



昨日は仕事の忙しさが今までで一番だった気がした。

朝も少しずつ早めに出社するようになったが、以前の職場みたいに朝、昼、晩と仕事をするような生活には二度と戻りたくないと思った。



最近読んでる本の内容が、
「一見普通に見える人がなぜ逸脱した行動にでるのか」
みたいな内容で、その中の「完璧主義の人が陥りやすい状態」についての言及がまさに自分のことかと思った。



どうやって自分が完璧主義的になったか考えてみた。

例えば、私が親から買い物と洗濯と風呂掃除を頼まれたとする。
買い物と洗濯はしたけど、風呂掃除はまだだった。

単に忘れただけかもしれないし、お腹が急に痛くなって出来なかったのかもしれない。


親には買い物と洗濯はしたけど、風呂掃除はしてないと話す。


そしたら返ってきた言葉は、
「何でやってないの?遊んでたの?」


買い物と洗濯をしたことは全く評価されない。
出来なかったことだけ責められる。


そうするともっと認められたくて、今度は頼まれていないゴミ出しやら夕飯の支度やら、「やり残し」がないように徹底的にやらないと気が済まなくなる。



完璧主義になりやすい人は、誰かに認められる経験がなかったり、自分に自信がない人ではないかと思う。

長時間労働で自己破壊的に働いてしまう人は、自分に高いハードルを課すことで、それが達成した時にえられる達成感や、結果によって評価されることで自分を満たそうとするのかもしれない。


それが上手くいっている間はいいものの、頑張っても上手くいかなかったり、一向に評価されなかったり、自分みたいに破壊的に働かなくても幸せそうにしてる人を見たりすると、「何か」が切れて病になったり自ら死を選んだりしてしまう。



自分に「頑張らなくてもいいんだよ」と言えない。
駄目な自分が許せない。
人生に汚点をつけたくない。



今自分が苦しい状況にいるのに、ずっと苦しい環境に留まろうとしてしまうところが自分にはある。


今苦しい状況でも、頑張って続けていればきっと誰かが分かってくれる。
己を犠牲にして、睡眠時間を削り、飯を食べずに自分を奮い立たせて膨大な量の仕事に向き合う。


評価されるどころか、露になるのは自分の欠点ばかり。
いつも仕事の出来る人と比較して、「何で自分だけ出来ないんだろう」と自分を責める。
上手くやれる人ばかり見て、劣等感を募らせる。


こちらから精一杯挨拶しても周りには無視される。

辛い毎日で心は限界なのにまだ続けてる。


「付き合いが長くなれば、お互いのことが少しずつ分かってきて打ち解けられるかもしれない。」

「続けていれば、仕事のコツのようなものが掴めて、評価してもらえるかもしれない」



仕事を辞めてみて、続けていればどうにかなる問題ではないと分かった。

自分には合わなかったんだ。
だから結果が出なくても仕方がないのだ。
この場所で幸せになれる人もいるけど、自分は違った。



今となっては辞めてみてよかったと思う。

「そこに行かなければよかったか」と聞かれたら分からないけど、そこで自分に共感してくれた人もいて、辞める時にそれが分かったのも忘れられない思い出になると思う。



もし完璧主義的な方で、辛い環境からなかなか抜け出せないでいるなら、一度そこから距離を置いてリセットするのも一つの方法かもしれない。

そうしたら自分の至らないところも受け入れて生きる力をもう一度持てるかもしれない。

自由と責任のはざま

連休終わってしまいましたね。

休みは結局借りてきた本を読んだり、溜まった新聞を消化したり、ふとん干したりしてました。


連休は嬉しいのですが、休めば休むほど月曜の朝がかなり鬱々としますね。
毎日胃腸が辛くなる日々が帰ってきて、朝から「気持ち悪~」となりました。


寝てる間は何も考えなくて済むのがラク。
でも起きると「自分」が起動して、あらゆる現実が迫ってくるーーー。
この瞬間が一番辛かったりする。


大人になると、抱えている現実のデータがどんどん増えたり複雑になって、起動する時にエネルギーがいります。
パソコンとかもデータ容量が増えてくると、起動に時間がかかるみたいな感じに近いでしょうか。



小学校高学年の時に友人が、
「早く大人になりたい。」
と言っていたことがあります。

早く自立したかったのかもしれないですし、彼女は 子供が好きだったので、早く子供が欲しかったのかもしれません。



私は「ピーターパンなんちゃら」とか「モラトリアム」と言われるくらい、「大人になりたくない」と思ってました。


「大人になってよかった」と思える要素は何でしょうか。

飲酒やタバコが吸える(⬅私は吸わないですが)とか、稼いだお金が自由に使えるとか、とにかく「自由」をあげる方が多いかもしれません。
それと引き換えに「責任」もついて回ってくるのが常です。



私は年齢が30を過ぎた今でも、食玩とかガチャポンのようなものが好きですし、新幹線とか電車系のグッズとかが好きで、「どこの少年や。」と言われそうなやつなのです。


年を取るとそういうものって、何か「いい年して……」っていう目を気にしてしまいます。
年配の方で「少年ジャンプ」を読んでる方って、あまり見かけない気がしますね。


私は何となく「大人の方が不自由じゃん?」と思っておりました。
「大人」ならこうあるべき、みたいなものを求められてるからでしょうか。



でも、周りが思うような「べき」を24時間貫いているのも辛いですね。
誰しも時には、「自分がありのままにいられる状態」を生活の中に5分でもいいから取り入れないと詰まりますわな。

運命の人とはどんな人か

今、毎週土曜日に『ボク、運命の人です。』というドラマがやっております。

私は先日出先のTVをつけた時にやっていたのを見てから、所々合間に見たりしてます。


トーリーは30歳ぐらいの独身男性の前に謎の男が現れて、ある女性と彼との間に出来た子供が地球の未来を救うと言われ、見ず知らずの彼女に彼がアプローチをするといった筋らしいです。



彼が初対面の彼女の前に現れて、「ボク、運命の人です。」を連発して彼女から不審がられてますね……。

「そりゃそうだろう。」(^_^;)
と毎回ツッコミながら見たりしております。


でも、人と人が親しくなる最初の「きっかけ」って結構難しいものがありますよね。
漫画のおはなしを練る時も、最初って大事な意味合いを持つ一方で、作り物ですら考えるのが難しかったりします。



ドラマで主人公は営業の仕事をしている設定ですが、営業活動に例えて上司から、
「興味のない人に無理やり売り込むのは押し売りだ」
なんて言われるシーンがありました。


確かに営業活動は「欲しい」と「全く」思っていない人に売り込んでも、効果は全くといっていい程、期待出来ないと思います。

しかし、少しでも「欲しい」かもしれないと相手が思っていたら、脈がないわけではないという話です。


昨日見た回では、最後に彼が彼女に「自分のことを
嫌いでないか」を確認していました。
「嫌い」と言われれば、アプローチを諦めるつもりでした。


「嫌いではない」
と彼女から言われて、彼は舞い上がっていました。


あんなに嫌がっていた彼女が、彼との会話に応じるようになっていました。
一体彼女の中で、何が起きたのでしょう。


やはり「押し売り」でも、毎日目の前に現れて話しかけられたら、気持ちが傾くのでしょうか。




そもそも「運命」って何でしょうね。

私が思うに「運命」とは、何かに向かっている時は気づかないけど、ある到達点に辿り着いて初めて、「運命」だと感じるものだと思います。
「縁」も同じようなもんですよね。


今回のドラマで言うならば、

気がつくとある場所にいて
気がつくと彼女を見ていて、
気がつくと彼女に話しかけていてーー。

誰かに指示されるわけでもなく、相手も気がつくと同じ事をしている。



私が小学生の時に、席替えのくじ引きで何回も隣の席になる男の子がいました。
彼とは林間学校の肝試しでペアになったり、大学時代のバイト先が一緒だったりしました。

でも、まともに話したことがありませんでした。



今は物理的な空間だけでなく、ネット上などの場で不特定多数の方と同じ「場」を共有することも増えました。

同じ境遇にいるだけが「運命」ではなく、自らの行動などの働きかけがなくては、つながりは生まれてこないのだと思います。


私は自信がない人間なもんで、自分の「押し売り」なんて到底出来ない…。(苦笑)

普通の家庭でなくても

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昨日TVの某番組で、虐待された経験がある一般の方が、自身の経験を語られているのを見ました。

辛い過去を誰かに話す時とは、その時のことを思い出しながら語るわけで、こうして公の場に出て語る勇気だけでも感心するところがあります。


彼、彼女は虐待を受けて育ったが故に、人を心から愛せなかったり、反対に人に依存的になったりと、人との関係を上手く築けなかったりします。



私の家庭は機能不全家族と言われているようなもので、私が生まれた時にはすでに、父親の母親に対する暴力が日常的にありました。

暴力の対象は母だけで、私や兄に手をあげることはありませんでした。
私は父親と母親の間に割って入って母を庇い、兄は部屋の片隅でぶるぶる震えていました。


友人の家に遊びに行くと、家庭内の緊迫したような雰囲気は感じられず、父親とも冗談を言い合ったり出来る関係を心底羨ましいと思ったこともありました。



でも私にとって父親の暴力と同様、母親にされたことが記憶に残っていたりします。

最近読んだ本で、子育てでやってはいけないことの3つとして、
①自分のイライラをぶつけない
②(子供の)否定的なことばかり言わない
③(子供の)きょうだい同士を比較しない

とありました。

「うちは全部当てはまる……。ダメだこりゃ~。」
と思いました。


私は小学校に入る前辺りに、夕飯が全部食べられず、台所の片隅で「居残り」させられてました。
何時間お皿を見続けても食べられず、しまいに船をこぎだす毎日でした。

そうすると母に「ここに入ってなさい!」と、黒いごみ袋を出されてしまいます。


仮に栄養バランスよく食べさせようと思ってやっていたとしても、「ごみ袋に入れられた」という記憶が強く残っているだけです。

今となっては、母が余裕がなかったからと理解する部分はありますが、もう少し他の方法はなかったものかと思います。



学生時代ぐらいまで漠然と「普通の家庭」に憧れていました。
お金はあった方がいいけど、生活していけるぐらいあればいいし、何より両親の仲がよいのが一番だと思っておりました。



自分が育ってきた環境が恵まれていないと、他の人より心に大穴があいた状態な気がします。

私の父親はギャンブルやお酒でその穴を埋めようとしていたのだと思いますが、ギャンブルや過度の飲酒は一時的にはごまかせても、寂しさが増すものばかりです。



私はずっと「父親のようなはならん」と自分を戒めてるつもりです。
母は今でも私の気に入らないところがあると、「父親に似てる」と非難するわけだが、「そんなの関係ねぇ!」といつも反発したくなります。


私は本を読んだり、変な絵を描いたり、変な写真を撮ったりして大穴を少しずつ埋めています。
自分に何が合うか、心のままに色々始めて辞めてすればよいかと思っております。


心の穴を埋めようと誰かに依存的にならず、人に何かをしてもらうばかりでなく、誰かに返していくことで心満たされるような人生が送れるとよいですね。

縁の下の力持ち

先日仙台城に行った時におみくじを引きました。


年始めの記事でも書きましたが、初詣の時に引いたおみくじ……末吉だったのですよ。
何か今年は波乱万丈な一年になる気がしておりました。


仙台城の入り口付近におみくじがあって気になっていたのですが、一年に何回も引くと何か「浮気した」ような後ろめたさを感じるところもあったのです……。(~_~)

でも帰りに見たらやっぱり気になって、引いてみることにしました。
種類が5つもあってどれを引くか迷いました。

下の写真を右から、
・男みくじ
・女みくじ
・恋みくじ
・普通の(?)みくじ
・強運みくじ
がありました。

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一番右はないとして(笑)、2番と3番目は恋愛系しか載ってなさそうだったので、総合的に載ってるのが欲しかったので左2つで最後悩みました。


やっぱ「強運」って惹かれますよね。



がさごそ…………えいっ!



電車の時間が迫っていたので、その場で見ずに退散しました。




電車の中で広げてみました。
結果は「吉」でした。


書かれている内容が心に染みて、正直うるっとしてしまいましたよ。



「今の縁を大切にすること。我儘をいったり自分勝手に振る舞ったらせっかくの縁も駄目にしてしまいます」



職場を何度か変えましたが、転職活動をして色んな会社を見てきました。


私が新卒で入った会社は、履歴書に書けばほとんどの方が知っている会社でした。

なかなか書類選考で通らなくて、やっと面接で呼ばれて行ってみたら、私自身のことでなく、その会社の業績はどれくらいか聞いてくる会社もありました。

そんなの経理部門でない、しかも一ヶ月しかいないぺーぺーが知るはずもなく、知ってたとしても言えるはずもないのに、そんなことのために呼ぶのは不誠実だと思いました。



でもそういう会社ばかりでなく、今の自分を見て真剣に雇うことを検討している会社もありました。

勿論「最低限経験していて欲しい業務」というのが会社それぞれにあって、書類選考で全く相手にされないケースもあります。


しかもそれも「縁」のうち。
そこに行く運命になかっただけのこと。


元々私はスピリチュアルとか占いとか、ガチで信じてるタイプではないのですが、30うん年の月日を振り返ると、これまでの歩いてきた道に「縁」のようなものがをあるのではないかと思えたのです。



今の会社はまだ3ヶ月ぐらいしかいないので、この先も続けていけるか分からんではあります。

私はかなり不器用で、仕事でイレギュラーなケースが発生するとフリーズしてしまうことが多いです。
それでも周りの方がフォローしてくれてるのを感じて、「頑張らねば」と必死こいてます。


先日利用した施設で、対応してくれた男性がめっちゃ不器用な方でした。
でも彼より若そうな女性従業員の方がフォローに入っていました。


一見「接客業向いてないんじゃね?」と思える人でも、周りの協力があればこなせる場合もあるのだと思います。


どういう人が働いてるかとか、どういう環境かなんて外部からは分かりませんが、辿り着いた場所には何らかの「縁」のようなものがあるかも知れませぬ。

私が働いていた会社がたとえ有名で、自分の好きな商品を扱っていても、自分に合わない環境だったら働き続けられんです。



こうして駄文を世に送り続けているブログも、何かの「縁」で始めたのでしょうかね。
読んでくださった方には、この場を借りてお礼申し上げます。(>_<)