生きづらい社会で息抜くために
先日TVで『あなたは今幸せですか?』と聞いているドキュメント番組がやっておりました。
ツラい毎日を送ってたりすると、意外と「ドキッ」とする質問ですね。
「今幸せじゃないな……」とか頭をよぎると私は目元が潤んでしまいます。
最近「この社会は生きづらいな」と思うことが多いです。
詰まってた時に読んだ本がためになったので、ここでちろりと紹介しておきます。
①『幸せのメカニズム 実践・ 幸福学入門』前野隆司
②『この国の冷たさの正体 一億総「自己責任」時代を生き抜く』和田秀樹
①『幸せのメカニズム 実践・ 幸福学入門』
「どうしたら幸せになれるか」について考える時、
「高収入である」とか、「人とのつながりがある」とか人によってそれぞれかと思います。
この本では地位や収入といった客観的な指標だけでは測れない主観的な「幸せのメカニズム」について明らかにし、「どうしたら幸せになれるか」のヒントを与えてくれます。
本の中で次のような4つの「幸せのもと」となるものを紹介しておりました。
(1)「やってみよう!」因子(自己実現と成長の因子)
➡これは自分の得意なことで誰かの役に立つことで得られる幸福感です。
お金をもらえなくても、支持している人がたくさんいなくても構わないのです。
今はブログなどで自分の持っている知識や経験を提供してる方がおられますね。
誰かの役に立っていると思うと「もっといい記事を書こう!」と励みになり、その方面での知識がますます深まったりします。
(2)「ありがとう!」因子(つながりと感謝の因子)
➡これは友人知人とかとつながりがあることで感じられる幸福感です。
友人の数が多いから幸せなのではなく、年齢、性別など多様な友人が多いほど幸福感が得られるそうです。
お金も自分に使うより、誰かのために使った方がより幸福に感じるそうです。
(3)「なんとかなる!」因子(前向きと楽観の因子)
➡これは楽観的な方がより幸福感を感じるということです。
例え話でよくありますよね。
「時間が30分しかない。」と考えるか、
「時間が30分もある。」と考えるかという例が。
私は何でも物事をよろしくない方に考えたり、失敗を何度も思い返してしまったりということがあります。
一度考え出すとやはり気持ちがなかなか明るくならんですね。
楽観的な人の方が毎日楽しそうに思えるのも、こういうことなのかもしれないですね。
(4)「あなたらしく!」因子(独立とマイペースの因子)
➡これは周りに気を使いすぎず、自分らしくいられることで得られる幸福感です。
日本人は特に周りに同調しがちで、「空気を読む」ということに腐心しておりますね。
かといって何でもやりたい放題という訳にもいかないわけで、大事なのは自分を客観的に見る視点だそうです。
自分を出しつつ、周りにも気を使うーー
これが結構難しいですね。(^_^;)
これらの4つは「全て揃っていれば幸せになれるぞ」というものではなくて、幸せな人を見ると主にこういう要素によって幸福感が得られているというものです。
私はどれも満足に得られてない気がします。
だから「幸せではないな……」と感じるのですね。(x_x)
これも受け入れて、楽観的に生きるしかない!(笑)
②『この国の冷たさの正体 一億総「自己責任」時代を生き抜く』
この本は人に対して問題の全てを「自己責任」に終止してしまう傾向にある社会に警鐘を鳴らすような本です。
最近、生活保護受給者に対する市職員対応の仕方で問題になっているニュースを見ました。
日本では生活保護の受給者が年々増えており、ニュースでは不正受給の話題が度々されていますが、受け取らなければ生活できないような方が受け取れていない現状があるそうです。
今シングルマザーの子供の貧困問題がありますが、「自己責任」の名のもとに「お金がないのに離婚するから」なんて話も出てきます。
問題にするところの焦点が違うのでは、と感じます。
私の両親は父親の家庭内暴力が原因で、私が中学に上がる頃に調停離婚しました。
母は何度も家を出ようとしておりましたが、やはり1人で兄と私を養っていけないので、何年も殴られて蹴られて包丁をつきつけられても耐えておりました。
今同じような状況にある方なら、生活の見通しが立つという意味でも、生活保護があるだけで十分違うかと思います。
生きていれば何が起こるか分かりません。
道を歩いて車に追突されるかもしれないですし、親の具合が急に悪くなって介護が必要になるかもしれないのです。結果、今働いている人も働けなくなることだってあるのです。
働きたくても働けない無職の人や、低収入で頑張っても苦しい現状から抜け出せない人だっているのです。
社会福祉は国民の「もしも」に備えるものであって、「何でそうなったんだ。そうなった自分が悪いのだ。」というのは次元の違う話のような気がします。
弱者になってしまった方を切り捨てるのは、人生に勝ち負けをつけるような柔軟性のない息苦しい社会です。
私はこれらの本を読んで、人々の多様性を認めるのがかなり大切だと感じました。
私自身も自分を受け入れてもらうには、相手のことを理解しようとしたり、受け入れようとする姿勢を持たないとと改めて思わされました。
今置かれている状況がツラいと感じることがあっても、自分が「自分らしくいられる」と思うことを一つでも生活に取り入れていけば、それは息抜きにもなるし、この世を生き抜く術にもなると思います。
昔の記憶が頭をグルグルめぐる
『魔方陣グルグル』の3回目となるアニメ放送がされるそうです。
って、今はグルグルを知らない方が多いのかもしれないですね。(^_^;)
90年代に2回アニメになっていた漫画なのですが、私は現在も連載してることを最近知りました。
どういう漫画なのかざっくり言うと、
「勇者と魔法使いが魔王を倒す話」
です。(笑)
これじゃー面白さは伝わらんね。
ギャグ漫画ですよ。
とにかく登場するキャラがハンパなく面白い。
「腰みのをつけた上半身裸のおやじ」(⬅変態?)
とか
「しゃべるプードル犬」(⬅ソフトバ○ク?)
とか
とにかく、「まともな」人が誰一人いないんじゃないかというぐらいかなり笑える漫画です。
我が家では兄妹ともどもハマっていて、昔の写真とか見ると兄はたいてい「キタキタおやじ」(⬅腰みののおやじですよ)のポーズをとっておりました。
私は主題歌も好きで、特に奥井亜紀さんの『Wind Climbing 〜風にあそばれて〜』は兄がCDを持っていましたので、当時はかなり聴いてたました。
最近でもたまに聴いたりしますが、結構「うるっ」っときますね。
私の画風も、友人が私の絵を見て「それってグルグル?」って聞いてくるぐらい影響力はかなりあったかと思います。
その頃はドラクエのモンスターばっかり描いてましたが、グルグルのギップルというキャラクターもよく書いてました。(⬅モンスター扱い?)
グルグルという魔法は確か子供しか使えなかったような……。
グルグルって、「絵を描く楽しさ」の象徴みたいなもんですよね。
あれやこれやとノートに思いつくまま描いたものが結構いい作品だったり、自分の心理状態をよく表してたりするもんです。
私なんぞ人と中々親しくなれないもんで、小中高大と変わる度に共通の話題がなくてツラくなるんですが、グルグルの話は同世代だと世界共通語みたいなもんでしたね。
私は小学生からずっと漫画家志望でしたので、将来は会話が苦手な人の会話のきっかけになるような漫画を描きたいと思っておりました。
グルグルのようにシリアスになりそうなシーンを全て笑いにしてしまう秀逸な作品を描いてみたかったものです。
年を取ると、子供の時のように「思うがままに興味があるものにチャレンジして失敗して」ということが難しくなってきてしまいますね。
たまにこうやってあの頃に帰ってみると、「もう少し未来は明るいと思ってたな~」と、生きる活力が戻ってきたりもします。
アニメの放送時間はいつになるのか分かりませんが、少ししたら日本の片隅で大爆笑してるかもしれないですね。
違和感ハンパない(笑)
だれ?
試される人間
先日とある採用試験を受けた。
何十人と集められていたが、この中で次へ進めるのは数人だろう。
決められた時間にこなす大量の計算問題に意味を見いだせなくても、多くの候補者を振り落とすためには仕方ない。
あらゆる方法の試験を受けていると、出荷前の「製品実験」をされている気分になる。
「弾かれた製品」はただ捨てられるだけだし、自分が「ダメなやつ」と感じる心がないから羨ましい。
「弾かれた人間」は、「ダメなやつ」という心理的ダメージを背負ってそれでも生きていくしかない。
就職活動をしていると「自分の能力の限界」が見えてくる。
どうしても、何が得意か、何がしたいか、どういう実績を残してきたか、を「要領よく」伝えられる人がどこへ行っても得をする。
世の中には色々なタイプがいて、外向的な人間もいれば内向的な人間もいる。
それでも内向的な性格を活かせる仕事の方が少ないから、仕事に就けなかったり、合わない仕事をしてすぐに辞めてしまう人もいる。
それなのに、内向的な人間を「ダメなやつ」と思わせる雰囲気が社会にはある。
外向的な人は、自分の性格を変えるよう迫られる状況になることは少ないが、内向的な人は自分らしく生きていると損ばかりする。
「要領がいい」人が少ない労力で済ませてしまうことにも、「あれがいいのか」「もしかしたらこれはダメかもしれない」と悩みすぎて前に進めなくなってしまう。
「要領がいい」人にしてみれば、努力の仕方とか努力の矛先が違ってるのかもしれないが、「要領のよくない」人はどうしていいのか分からず途方に暮れながらも、何とか道を探していくしかない。
これからの時代は人工知能の活用が色々な分野に及んでくるだろう。
ますます「要領のよさ」が重要視され、「要領のよくない」人が排除されていくのではないかと思っている。
でも「要領のよさ」において人間は人工知能に負けるのではないか。
仕事で求められる「細やかな気配り」は、「多くの情報」からその場に合った対応を「瞬時に」求められることである。
私は自分自身が「要領のよくない」人間で、何事も自爆していることが多いので、そういう人を見つけたら心配になるし、応援もしたくなる。
ここ最近、毎日「生きてるのが辛い」という日々を送っている。
それなのに試験帰りの電車の窓から見えた景色に「死にたくない」って思えたのが不思議だった。
「こんなに空って広かったっけ。」
人間って結構「曖昧」で「いい加減」で「予測不能」だ。
計画通りにいかないからこそ、それが「人間」であり、それが面白いところでもあるはずだ。
こんな自分でも「よい」と思ってくれる人や場所に力を注ぎたいし、もしそういう居場所が得られたら、将来他の人のためにもそういう居場所を作れたら理想的だ。
生きている間に出来ること
私が毎回散髪に行く美容院では、待っている間に雑誌を何冊か持ってきて下さいます。
いつも持ってきて下さる雑誌は大体女性ファッション誌が多いのですが、今回はいつもと違う若い男性の方が持ってきて下さって、いつもと違うラインナップでした。
「家の中の簡単お掃除」
「40代ママさんが出来るおしゃれコーディネート」
「むむむ……?」
お掃除は……まぁよしとする。
私は……「40代ママ」に見えるのか…。
40代の方を否定する意図は毛頭ございません。
ただ10歳ぐらい上に見られるとは……。
きっと人生に疲れて「生活感」のようなものが漂っていたのかもしれませぬ。
最近、何かと将来について考えることが多くなりました。
勿論「転職活動をしているから」というのもありますが、年齢的なものがあるのかもしれません。
つい先日新聞の一面に、医学的に「高齢者は75歳以上」という記事が載っておりました。
今現在65歳以上が支給年齢の年金が、私がその年の頃には何歳まで引き上がっているのだろうか…と思いました。
「若い時の所得格差は老後に色濃く反映されるのではないか」と考えると、自分の将来が薄暗いものに感じます。
所得の多い方は老後のための貯蓄も出来ますし、手厚い保険にも入れる余裕があります。
今現在低収入で働いている方や、私のように無職の方は、年を取っても生活のためになかなかリタイア出来ず、その都度引き伸ばされるゴールテープに向かって働き続けるしかないのでしょうか。
と、「不安材料」を挙げたらキリがなくなってしまいます。
生きることは辛いことの連続でしかないのです。
私は就職に失敗しすぎて、将来のことを考えるとどうしても薄暗い気持ちになります。
人間失格なので結婚とか出産とか難しいと半ば諦め感情であったり、「こんな時代に生まれる子供は幸せなのか」と疑問に思うこともあります。
この年になって、
「ではこの先何十年という長い年月をどうやって頑張ればいいんだろう」
と気が遠くなりつつあります。
私は一日一日を生き延びるために、「生きている間に実践したいこと」を持っておくようにしております。
遠い未来のことでなくても、「明日○○しよう」でもよいのです。
私は生きている間に日本全国行ったことのない都道府県に旅行したいと思っております。
漫画やイラストを描くのが生き甲斐なので、合間を縫って一つでも多くの作品を残したいです。
私の祖母は80歳を越えて元気にしておりますが、野菜など育てることが好きみたいで、最近は自分が食べれるくらいを作っております。
日々変化するものを見つめてるのは楽しいもので、生き甲斐にもなるのではと思っております。
ペットを飼われる方もそういう理由かもしれないですね。
私は将来生きていて子供がいなかったら、次世代を育成する何らかの活動に力を出すのもアリかと考えたりもします。
無職逃迷
昨今いじめ自殺や過労自殺が話題になりました。
その度に人には「逃げ道」が必要だと思わされます。
私の母はどちらかというと私に「逃げ道」を与えるようなことはしませんでした。
母は私よりかなりの負けず嫌いで、「逃げ」=「負け」というのがあるからだと思います。
私は学生時代にいじめにあったり孤立することが何度もありました。
それでも転校するとか不登校になるという選択肢はありませんでした。
だから学校に行っている間は感情を失ったように、目立たず、たんたんとカリキュラムをこなし、ただ卒業することだけを目指しました。
私には幸い漫画や日記がありました。
現実に居場所がなくても、人にぶつけられない思いをそこに書きなぐっておりました。
この「逃げ道」がなかったら今まで生きてこれなかったのではないかと思います。
職業選択の時も、母は私に安定職を勧めました。
労働環境の問題が叫ばれている昨今ですが、それでなくとも
「子供には安定した職業に就いて欲しい」
と思う親は多いのではないかと思います。
私の兄は学卒後は比較的安定した仕事をずっとしております。
兄の適性を考えれば、その選択は間違いではなかったと妹の私も思っております。
本人も「よかった」と話していたので、親と衝突することはあまりないのです。
私といえば、親の期待にも添えず、かといって自分の望んだ職業に就いているわけでもなく、中途半端な自分にしばらく苦しんだりしました。
仕事を渡り歩いている中で、苦しい思いも沢山しました。
けれど、多忙な中でも新人に多くの仕事を叩き込まないといけない上司が話す子育ての苦労話だとか、働きながら休みはバンド活動に生き甲斐を見出だしている同僚だとか、色々な「働く」のあり方があることを知りました。
漫画を描くことは私の生き甲斐です。
でもそれだけでは生活できないのです。
自分の得意分野で自分の能力を活かして働いてらっしゃる方は一杯おられると思います。
でも不器用な自分にはそれが難しいのです。
今となっては、母子家庭で2人も子育てしていると生きていくだけでも精一杯だったというのは分かりますし、働いて所得がなければ自分のやりたいこともままならない不自由というのも痛いほど感じております。
私は前職で合わない仕事でかなり消耗しておりました。「逃げ」るのが嫌いな母ですら退職を勧めたぐらいですから、相当ヤバかったのではないかと思います。
苦しい状況でも時には踏ん張ることも必要で、かといって踏み留まることが必ずしも良い選択と言えない時もあったりします。
そこの見分け方がかなり難しいところなんですが、「逃げ道」といった否定的な捉え方ではなく、「自分の鍛えたい能力」を伸ばせる環境を選ぶ気持ちで行く先を決めていくしかないと思うに至っております。
おみくじは○吉
今日は初詣に行って来ました。
いつも行ったらおみくじを引くのですが、家で去年引いたやつを出してきて見たら「吉」でした。
去年は「あまり良い年ではなかった」と思っていたので「小吉」ぐらいだったかなと予想していたら、意外といい方でした。
今年は仕事やそれ以外でもよき出会いを果たして、充実した一年を送りたいと。
いざっ!
「末吉」
「……。」
「ポーン」っとお寺の鐘が鳴っておりました。
内容を読むと、願い事も縁談も何者かにさまたげられるは、失物はなかなか出てこないは、自ら進んで物事を始めるなときたものだ。
そんなぁ……。
でもよくよく考えれば、去年引いたおみくじのことを今の今まで忘れていたわけですし、大吉を引いたからといってことあるごとに「私今年大吉だったから何とかなるぜ~」とはあんまり思わんだろうなと。
おみくじでも何でもそうですが、ポジティブに考えるかネガティブに考えるか、捉え方の違いによって見ている世界も変わってくるのだろうなと思います。
思えば家族全員が死なずに一年を過ごせたのも大いにありがたいことですし、仕事を辞めたのも何かを始めるために必要な過程なのかもしれないですからね。
末吉って何か5人兄弟の末っ子みたいな名前ですもんね。
上手くいかないことで、よかったことを全部上書きしてしまっているのかもしれないです。
そういったことも意識して過ごせるとよいですね。
会ったことがない人から年賀状が届く
明けましておめでとうございます。
私の2017年の始まりは、柄にもなく年越しライヴなどに行っておりました。(>_<)
寝て起きて簡単にお雑煮を用意して、年賀状をポストから取ってきたら、今年は母宛に「初めての方」から年賀状が来ておりました。
「ツイッターで知り合った方だ(@_@)」
私の母は私がブログを始めたのと同じくらいにツイッターをやり始めました。
元々私と違って気がつくと誰かと話しているようなタイプの母は、仕事に忙殺されて話し相手として全く役に立たなかった私の代わりを求めていて、ツイッターを始めてから活き活きし始めました。
それにしても
「一度も姿を見たことがない方と年賀状をやりとりする時代になったのだなぁ~」
と、改めてソーシャルメディアの影響力を感じました。
学生時代が終わると、なかなか新しい仲間を見つけるのが難しくなります。
近くにいないとかいう物理的な問題もありますが、私の場合「人生が上手くいってないことの負い目」みたいなものがあって、自分に自信がなくてなかなか積極的にいかんところがあります。
小さい頃は「微笑めば仲良し」な「小さな世界」に生きているようなもんです。
それが年を取ってくると「働いている」「いない」であったり、「結婚している」「していない」など、自分を取り巻く世界が複雑に絡まり広い世界を成してくるので、人との付きあいもそう簡単にいかなかったりします。
ソーシャルメディアが社会に浸透したことによって、そうした自分の「取り巻き」を気にすることなく誰かと交流出来るようになって、従来では考えられなかった化学反応が起きているのだと思います。
以前のブログでもちろりと書きましたが、自分の可能性をどこまで伸ばせるか、生きている間は常に自分に問いかけ、色んな分野での化学反応を試せるような一年にしていきたいと考えております。