夢は夢のまま

教科書もマニュアルもない人生という学校で、共に学び、支え合い、卒業を目指すためのブログ。

東北の冒険へ

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先日東北の某県へ旅してきました。

前々から東北方面は行きたいと思っておりましたが、仕事がやばかったのでしばらく旅行どころではなかったですね…。



某県とかぼかしてるけど、写真見たらバレますわな。宮城県の仙台です。

田舎が福島なので、東北にピンポイントには何回も行ってますが、それより北側は足を踏み入れてなかったので「やっと」という感じですね。



別用があって時間があんまりなかったので、行けた場所がかなり限られてしまいました。


少ない時間でどこ行こうか考えて、お城とか結構好きなので、仙台城に行きました。

現地までコミュニティーバスのようなものに乗って行ったのですが、めっっっちゃ混んでいて、乗車率130%ぐらいの車内で上り坂をくねくね上っていくのがかなり苛酷でしたね。


戦争や災害で、ほとんど城の原型は残ってないのがホント残念でした。

建物に限らずそうですが、歴史を次世代に引き継ぐのって簡単ではないし、誰かが意識的に守っていかないと消えていってしまうものなのかもしれないなと感じました。



私が行った時期は桜のベストシーズンらしく、近くの公園がかなりの行楽客で溢れてました。
その影響か、帰りは道がかなり渋滞してて、予定の倍ぐらいの時間がかかって仙台駅まで戻ってきました。(よれよれ~)


ビン詰めの牛タンとか、ビン詰めのプリンとか重そうなものを帰りに買って帰ろうかと思っておりましたが、電車の時間に間に合わなくなりそうだったので泣く泣く諦めました。(>_<)



桜の公園にある甘味処で列を待っていたら、中学生ぐらいの女の子とお母さんが私の前に並んでいました。
私が地図で読めなかったとある場所名をあげて、地元の話をしておりました。


彼女はこの地に生まれ育って、この場所が彼女の生活の一部として成り立っているのだなーと感じました。


旅の途中で現地の人に2回話しかけられましたが、この土地で暮らしてきた歴史みたいなものがその方たちの中に流れていて、それはどこに暮らしていても同じで、比較しようもないものだと感じました。


先日メディアで、ある方が「震災が起きたのは東北だったからまだよかった」みたいな発言をして問題になっておりましたが、その土地で生きている方の歴史というものにも思いを馳せて欲しいと思いました。



旅を通じてその土地の雰囲気を味わうのはよいですね。

私は生まれてから30うん年同じ土地に住んでますが、将来的にどこかに移住するのもよいかもしれないと考える時もあります。

私は地方暮らしには必須の運転免許を持っていないのと、仕事もどの土地に移住しても出来る専門的スキルもないので、そこを何とかせねば難しいですね…。(^_^;)



地方が活性化していくために何が出来るのか。

私のような影響力がない人間がぼやいても何にもならんと思うけれど、ブログやツイッターなどで一人一人がその土地の魅力を語るのは大切かなと思います。



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高台から遠くに見える白いものが気になって調べたら、「仙台大観音」というものがあるみたいですね。

自分らしく生きるために

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少しだけ髪を伸ばそうかと思っております。

元々幼稚園の頃からロングヘアーが好きだったのですが、中学生ぐらいから今まで、伸びてくると肩につくかつかないかぐらいに切っていました。



以前の母親は、私の髪が伸びてくると毎回「短くしてこい」と言います。
私はロングヘアーが好きなのを我慢してました。


私が小学生の時の夏休みだったかな。
「髪を切ってこないと田舎に連れてかないよ!」と母親に言われて口論になったことがあります。

私は一人だけ置いていかれたくないので渋々切りに行きました。




何で我慢してたかというと、純粋な理由です。
小さいうちは親の期待に添おうとして、自分の意志をごまかしたりなかったことにしようとするもんです。


でも年を取ってくると段々我慢してるのが苦痛になります。
子供が大きくなるにつれ、親とは違う「自分の性質」を自らの中に見つけて、自分らしく生きようとすればするほどごまかしがきかないものになります。



私の兄は勉強とか「さらっ」とこなしてしまうタイプで、不器用でやらかしてばかりいる妹の私は比較されて育ったと思っています。

兄は親の言うことを素直に聞き、親の期待するような仕事をしていて、私は納得がいかないと噛みついて、しかも人生失敗ばかり。


私はずっと「親からの扱いの違い」みたいなものを感じていて、親の期待に添うように頑張ろうとして、大学受験で失敗したり、仕事選びで失敗してきました。
その度に親から「何で?」と責められてました。



でも20代半ばぐらいになったら、何か吹っ切れてしまいました。
「私がどんな辛い状況でも、自分の身に起こることは全て自分で引き受けていかないといかない」と実感したからだと思います。

子供が学校でいじめられても、ブラック企業で酷使されても、親が肩代わりするわけにもいきません。


であるならば、自分のしたいことをして文句を言われたり、返り討ちにあったとしても、いいことも悪いことも全て自分が受け止める。
それが人生なのかなと思います。




先日、いつも通っている美容院のカリスマ美容師(笑)に髪を少し切って整えてもらいました。

帰ってから母親に「あれっ、全然切ってないじゃん。」と言われましたが、私は結構気に入っているのでよしです。
暑がりなので、夏場はまた元に戻すかは未定です。



私は漫画を描くのも読むのも好きですが、母はあまり好きでないらしく、過去に「漫画家になりたい」と話した時も渋い顔をしてました。

今となってはもうこんな年齢ですし、無理に誰かに好かれなくてもいいやって自分に言い聞かせてるけど、やっぱ自分に自信が持てないまんまだし、それってかなり辛いかなーと思います。



親に自分が受け入れられないと、自信が持てなくて、物事を決めるときにいちいち不安になったり、自分のしたいことが分からなくなったりします。

新たな出会いがあっても誰かを信じて身を委ねることも、自分から気兼ねなく心を開いたりということも難しくなります。
結果として幸せに人生を生きるチャンスを逃すことにもなりかねないのではと思うのです。



今子育てに追われて大変な方もいらっしゃると思いますが、子供の小さい好奇心を潰さず、出来る範囲で見守ってあげることが、子供にとって何よりの愛情かと思います。

一人暮らしは気楽か

「一人暮らしはなかなか大変だね。」



母宛に兄からそんなメールが来たらしいです。

私の兄は数年前から隣町で一人暮らしをしております。
最初に引っ越しの手伝いで行ったっきりで、今はどんな暮らしをしているかは分からんとこが多いです。


兄が家を出た頃の母は何というか……。
ホント「抜け殻」というか、「空の巣症候群」というような状態だったものです。
母親にとって息子は「永遠の彼氏」みたいなところがある気がします。

連絡なんてあんまり寄越さないから、連絡がくると母はいつも嬉しそうです。



私は会うたび毎回、

名探偵コナンはまだ集めてるの?」

「いつも何を食べてるの?」

と聞いてることが多いです。

名探偵コナンが続けば、単行本が兄の狭い家の床を抜くのではないかと心配しております。(笑)
あと、狭い流しで料理とか出来なさそうだし、食生活が心配なのです。



母から冒頭の話を聞いて、

「どういう理由で?」

と聞き返してしまいました。



一人暮らしが大変と聞いて想像したのは、「家賃が払えないなど、金銭的な問題」か「家事労働その他もろもろを一人でやらなければいけない時間や労力の問題」かなと。

今は兄の職場は忙しい時期なので、おそらく後者の方かなと思います。



一方私は昨日母と軽くバトルしてしまいました。
プロレスの類いではないですよ。(笑)


お互いの私物がお互いの領域を荒らしている、という些細な理由です。

私の母はどんどんモノを増やすので、狭っこい家がより狭くなるのです。


そこから火がつき、母が普段家事を全然手伝ってくれない不満が爆発して、「出来る範囲で構わないから、やってくれてもいいじゃん」と、あれこれ言いました。


昨日はホント、「人と一緒に生活するのは辛いなー」と落ち込みました。
自分の部屋なんてあってないようなもんだから、ブログだってパソコンじゃあんまり書かないし…。

そんな矢先に、兄から先のメールがきました。


今日は電車に揺られながら、

「昨日は言い過ぎたかな……。」

とチクチク感じておりました。


私は言いたいことを言えずに溜め込むよりも、お互い思っていることをぶつけ合う方が、お互いのためになると思っているのです。
その方が、相手が何を思っているか少しは分かりますし。


今日帰ったら母が家事を手伝ってくれました。
少し言い過ぎて申し訳ない気持ちと、正直にありがたかったです。



一人で生きる方が楽でもあるし、譲歩しあって誰かと生きるのも一長一短だなと感じました。
どちらの道を選んでも、それなりに大変だと思います。

『R25』がなくなるなんて知らなかった

以前『R25』というフリーペーパーが駅やコンビニなどに置かれておりました。

25歳ぐらいの男性対象の小さな冊子だったのですが、25歳でもない女の私が読んでました。
自分が通りかかった時に持ってくる場合もありましたし、兄が私の分も持ってきてくれる時もありました。


最近は冊子でなくなりweb版のみで続いていましたが、今月でなくなるそうですね。

「うぇー!?(@_@)」


昨日そのことを知って驚きました。



政治経済からエンタメといった幅広い記事がいくつも載っていて、お金を出してもこういった雑誌を私は見たことがなかったので、かなり気に入って読んでおりました。

この質を広告収入とかだけでどこまで続けていけるのだろう……と思っていましたが、とうとうなくなってしまうのですね。



私は特に石田衣良さんの『空は、今日も、青いか?』というエッセイが好きでした。

内容は読者層の男性に対するエールのようなものがほとんどでしたが、私自身も元気づけられたり、考えさせられたりしたものが多かったです。


その中で私が印象に残っている記事は、彼が秋葉原であった事件の犯人に言及した回でした。


秋葉原の事件があった時私は無職でした。

その年に私は大学を出ましたが、ブログで書いている通り、4月に就職してすぐに辞めてしまいました。
次の仕事も決まらず、方向性も見えず、この先どうなるか分からなくて、人生終わった感がありました。


犯人が非正規雇用の若者というだけで、当時の私にとってインパクトが強いものがありました。

被害者の方が懸命に人命救助に当たっていたドキュメンタリーとかも後に見たこともがありますが、こうなる前に何か出来なかったのかと思う事件です。



エッセイでは「自分の未来を諦めてはいけない」といったようなことが書かれていたと思います。

たとえ今、仕事が上手くいかなかったり、友人や恋人に恵まれていなくても、今の苦しい状況にはいつか終わりがくるということ。
その時を信じて今を踏ん張れるかが大切にといったようなことが書かれておりました。


確かに今苦しい状況に置かれていて解決策が見えなくなると、周りの人間に当たったり、自分自身を責めたりしたくなります。
なかなか「未来を信じろ」と言われても、受け入れられなかったりします。

それでも石田さん自身がフリーターを経験された実体験を元に、下の世代の方に向けられた励ましの言葉なのだと思います。



私自身もあれから10年ほどの間に辛いことの方が多くありましたが、その間に色々な出会いがあり、こうしていつかは振り返られる日が来るのだ思いました。



たくさんの楽しみと気づきを与えてくれた媒体が一つ、この世から去ることは寂しいです。

ただ私のようにこの雑誌を楽しみに読んでいた方はいっぱいおられたのではないかなと思います。



今苦しい現実を生きている方も、日々の憂いを昇華出来る日が来ることを願っております。

生きてることが辛いなら

私が20代の半ばに漫画の専門学校に通っていた時の話だ。

その時の講師が、キャラクターを作る練習として、
「電車に乗っている人のこれまでどうやって生きてきたか想像してみると面白いよね。」
とおっしゃっていた。


朝電車に揺られながらその事を思い出していた。

周りを見渡すとスーツ姿のサラリーマンばかり。
没個性でその人の人生を読み取ることは出来ない。
せいぜいどんな腕時計が好みか分かるぐらいだ。



先週のある日、帰宅時間に人身事故の影響で電車が遅れていた。
圧死するくらいのすし詰め電車で、自分の肩の骨が「こきっ」っとなって驚いた。
満員電車では隣り合う人々を「もはや人ではなくモノ」ぐらいにでも思っていないと精神的に参ってしまう。



ネットでは人身事故の生々しい話が載っていたが、どんな人が運ばれていったかは分からない。

そこに至るまでどんな人生を歩んできて、何がその行為まで至らせたのだろう。



以前『ありふれた奇跡』というドラマがやっていたのを見ていた。
ざっくりとしたあらすじは、電車に飛び込もうとする中年男性を近くにいた男性と女性が止める訳だが
、2人とも自らが死のうとした過去があってーーという話だった。



生きていれば表面に現れない、それぞれの事情があるわけだ。
でもことが複雑で繊細すぎて、他人が触れられない領域であったりする。



私は前の職場にいた時、ホームで電車を待ってたら知らないおじさんに話しかけられたことがあった。

普通は警戒すべきなんだろうが、その時は毎日会社で無視されたり辛く当たられていたせいか自然と話を聞いてしまった。

おじさんは自分の仕事の大変さらしきものを語りつつ、しきりに「俺はどうなってもいいんだよ」と言っていた。



現実の問題が解決するか否かということより、ただ今の現状を分かって欲しいと思う時があると思う。

ただ皆が皆、自分を大切に思ってくれたり、話を聞いてくれる人に恵まれている訳ではない。


今生きるのが辛いと思っている人に、何の事情も知らない私が「生きていて欲しい」と言うことは救いにもならない。
けれど、色々な人の人生を思って、色々な苦しみを抱えて生きている人がいることを想像して欲しいと思う。

彼女が見ていた桜の川

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高校時代川のそばに住んでいた友人が、こんなことを言っていた。


「桜の季節は川に桜の花びらがいっぱいになって綺麗なんだよ。」



彼女は私と同じ市区町村に住んでいて、高校で初めて知り合った方だった。
私と同じ母子家庭で、私との共通項が他の人よりあったので、私は密かに親近感を持っていた。


大学生の時に彼女は少し離れた市区町村に引っ越してしまった。
私は彼女が話していた「桜の川」の景色がどんなものなのかずっと気になっていて、この季節になると川のそばに行こうと試みている。


でも私が行くと、毎回川に花びらなんて浮かんでいない状態だった。
心の中でまだ見ぬ景色を想像しつつ、彼女が偶然見かけた一回性のものなのかもしれないという疑念もわいてきていた。


今年も桜の季節が来て、川に吸い寄せられるように行ってみると、⬆のような景色を見た。



「あっ……これがそうなのかな。」


やっと辿り着いた景色がそこにある気がした。
もしかしたら、彼女が見ていた景色とは違っているのかもしれないが。




桜の花びらが散るのは葉桜の頃だと思っていたが、今回行ってみてまだ枝に花びらがたくさんあるうちでもこんなに散ってしまっているのかと少し驚いた。



散った花びらは流れに流れてどこへ行くのだろう。


よく人が使う平凡な例えで申し訳ないが、
「花が散るように人間の命も皆が思うより短し」
と思った。


今まで生きてきた30何年が長いのか短いのかは分からないが、色んな人がおったものだ。

人生辛いことの方が多かったけど、今やれることを精一杯やっていれば、「未来がどう」とか「過去がどうだったか」なんて気にする必要はないよね。


私は人の気持ちが分からんかったり、毎日とちってばっかだけど、そんな中でもどこかに心通じる人がおるのではと思って淡々と日々を過ごしているのです。

人工知能は感情を持つようになるか

先日『アンドロイドレディのキスは甘いのか』(黒川伊保子著,2017,河出書房新社)という本を図書館で借りて読みました。

タイトルを見て少しその場で固まりましたが(笑)、人工知能の話とか関心があったのと、ぱらっとめくったら読みやすそうだったので借りてみました。



内容の大筋は、

人工知能が人間を越える日が来るのか」


という問いに対して、タイトルから察しがつく通り「アンドロイドは感情を持ちうるか」という観点から著者の意見が述べられておりました。


計算や素早く情報を処理する能力などにおいては人間は人工知能には勝てません。
しかし、「人工知能には感情は持てない」が故に人工知能は人間を越えられないと著者は述べておりました。



人工知能を人間らしく振る舞うようにさせるとしたら、人間の行動パターンをいくつも覚えさせます。
記憶した情報を元に状況に応じて、「適切な」対応を取るようにします。
しかしそこには何の感情の働きもありません。


「寂しい」と話かければ、「どうしたの?」と言ってくれるかもしれません。

人間であれば、その人が大切で何とかしてあげたいからいうのかもしれませんが、機械はただ「寂しい」というワードに対して「適切な」言葉を引き出しているに過ぎないというわけです。




誰かのブログを読んでいる方だったらうなずけるだろうという例が本書にはありました。


このワタクシのブログ、人工知能が書いてるんですよ。
ということだったらどうでしょうか。

私の今まで書いたブログの記事の文体とか、写真や絵の載せ方を記憶させておいて、あるキーワードを毎回与えて自動更新にしておくという。


このブログは風が吹けばどこかに吹き飛んでしまうくらい「うっすーい」内容の「しょーもない」ブログですが、少なくとも「うっすーい」「しょーもない」ヤツが書いているということは分かるでしょう。

ただ実際、私がスマートフォンを片手に書き書きしてるかは読んでくれている方には分からんのです。



小説や漫画でもよいのですが、作品を通じて読者は作者の人間性を感じとるもんです。
それによって作品や作者自身に惚れ込んだりするわけです。

それが全部「人工知能」が書いてたりしたら、モロがっかりしますよね。
「何だ全部作りもんやん!!」
って発狂してしまうかもしれません。(笑)


安心してください。(私が)書いてますよ。
(って古いな)




もしアンドロイドが感情を持ったら人間には勝ち目がなくなるんでしょうか。
ハンサムで気配りが出来たり、綺麗でナイスバディーなアンドロイドが出てきたら、人は色んな意味で「わずらわしくない」アンドロイドとの人生を選択するのでしょうか。

まぁ、そういうアンドロイドが開発されたとしても、その頃には私は生きておらんだろうので、その点はあまり心配はいらんかねー。(^_^;)

それに、より人間に近づけるためには「人間とはこういうものだ」という定義が必要なわけで、そんなことが簡単に出来れば哲学や心理学やあらゆる学問が要らなくなってしまいますねん。




私は「アンドロイドが感情を持ってうんぬん」という話が結構好きです。

ただ現実の人間は完璧でないところがあって、時に予想もつかないことをしたり言ったりします。
私は器用そうな人より不器用そうな人の方が好きですが、やはり不器用な人の方が人間らしいからかもしれませぬ。



どんな人であろうと、後にも先にも同じ人は存在しません。
鋼の錬金術師』でエルリック兄弟が体を失っても亡くなった母親を作り得なかったように、「人間」を作ろうとしてはいけないのかもしれません。

人工知能が感情を持つのはフィクションの世界だけに留めて、人間はたった一つの人生を喜怒哀楽を経験しながら生き抜くのが一番かと思います。