命の洗濯
私は基本、会社に行ったらもくもくと仕事をしているヤツなのですが、同じ部署にいる先輩と「コンビニの何とかというスイーツが美味しい」といったゆる~い話から、「私たちが年金をもらえるのは何歳か」といった堅い話までしたりします。
私はあまり自分から話しかけるタイプではないのですが、そういう「雑多な話が出来る関係性」が一度出来たら、余程のことがなければ変わらないと信じてる部分がありました。
友達と「また明日~」と別れても、確認する必要もなく明日もまた友達としていられるみたいな。
それが今週、何か調子が違う日が多かったのです。
何となく「そっけない」というか。
いつもなら私に仕事を頼む時も、「朝から大変なの来たね~」とか言いながら渡してきたりするのですが、
「やって」
と一言だけ。
「体調がすぐれない」とか、「忙しいのかな」と思っていました。
私がやれることをやろうと思ってやっていたら、
「それはやらなくていいから。」とか、
「これはこういうやり方じゃないから」
と言われてしまい、朝から何となく疲れてしまいました。
「私何かやってしまったかな……。」
と思っても、言われないと結局本人にしか分からないので、考えるのはやめました。
午後にはいつもの感じだったので、原因は分からぬままでした。
私の父親は短気で、いつもお酒を飲んで家で暴れてました。
恐らく会社でのストレスが溜まっていて、それをぶつけやすい家族にぶちまけていたのだと思います。
ただ私たち家族にしてみれば、何が原因かも分からない訳で、常に緊張状態に包まれてました。
父親が遅くに帰ってくる時には、いつも母と「寝たふり寝たふり!」と布団をかぶっていた記憶があります。
人間いつもにこにこ笑っていられる訳ではありません。
何かの事情があって、笑えない時や、つい誰かにキツく当たってしまう時もあると思います。
それは付き合いが長くなればお互い様のところがあるので、「何か虫の居所が悪いんかね~」と流すようにはしてますが、精神的なダメージがハンパないというか……。
こういう時「いちいち反応する「心」がなければいいのに」とか、「必要以上に関わらない方が傷つかなくてよかったのに」、と思ってしまいます。
私は父親も母親も兄も、みんな短気だったので、「今この人に話しかけていいのか?」と相手に気を使わせたくないといつも平静を装おうとしているところがあります。
でも人には感情というものがあって、誰かを大切にしたり、優しい言葉をかけたりする一方で、「死ね」だの「ウザイ」だのといって誰かを仲間外れにしたりするものです。
だから某ベストセラー本に書いてあるように、
「全ての悩みは人間関係である」
なんてことも、ある部分では「そうかもしれない」と思ってしまう訳です。
でも人と全く関わらないで生きることは出来ないので、人間関係で負った傷のようなものは、自分で消化していくしかないのだと思います。
私のブログのアイコンはお空のマークですが、空を見ていると一瞬憂いを忘れられたりします。
写真を撮るのも好きなので、結構気晴らしになったりします。
最近海に行きたいと思っているので、静かな海でも見て、何か近くでご飯でも食べて、「命の洗濯」をしてきたいなと思ったりしています。