『R25』がなくなるなんて知らなかった
以前『R25』というフリーペーパーが駅やコンビニなどに置かれておりました。
25歳ぐらいの男性対象の小さな冊子だったのですが、25歳でもない女の私が読んでました。
自分が通りかかった時に持ってくる場合もありましたし、兄が私の分も持ってきてくれる時もありました。
最近は冊子でなくなりweb版のみで続いていましたが、今月でなくなるそうですね。
「うぇー!?(@_@)」
昨日そのことを知って驚きました。
政治経済からエンタメといった幅広い記事がいくつも載っていて、お金を出してもこういった雑誌を私は見たことがなかったので、かなり気に入って読んでおりました。
この質を広告収入とかだけでどこまで続けていけるのだろう……と思っていましたが、とうとうなくなってしまうのですね。
私は特に石田衣良さんの『空は、今日も、青いか?』というエッセイが好きでした。
内容は読者層の男性に対するエールのようなものがほとんどでしたが、私自身も元気づけられたり、考えさせられたりしたものが多かったです。
その中で私が印象に残っている記事は、彼が秋葉原であった事件の犯人に言及した回でした。
秋葉原の事件があった時私は無職でした。
その年に私は大学を出ましたが、ブログで書いている通り、4月に就職してすぐに辞めてしまいました。
次の仕事も決まらず、方向性も見えず、この先どうなるか分からなくて、人生終わった感がありました。
犯人が非正規雇用の若者というだけで、当時の私にとってインパクトが強いものがありました。
被害者の方が懸命に人命救助に当たっていたドキュメンタリーとかも後に見たこともがありますが、こうなる前に何か出来なかったのかと思う事件です。
エッセイでは「自分の未来を諦めてはいけない」といったようなことが書かれていたと思います。
たとえ今、仕事が上手くいかなかったり、友人や恋人に恵まれていなくても、今の苦しい状況にはいつか終わりがくるということ。
その時を信じて今を踏ん張れるかが大切にといったようなことが書かれておりました。
確かに今苦しい状況に置かれていて解決策が見えなくなると、周りの人間に当たったり、自分自身を責めたりしたくなります。
なかなか「未来を信じろ」と言われても、受け入れられなかったりします。
それでも石田さん自身がフリーターを経験された実体験を元に、下の世代の方に向けられた励ましの言葉なのだと思います。
私自身もあれから10年ほどの間に辛いことの方が多くありましたが、その間に色々な出会いがあり、こうしていつかは振り返られる日が来るのだ思いました。
たくさんの楽しみと気づきを与えてくれた媒体が一つ、この世から去ることは寂しいです。
ただ私のようにこの雑誌を楽しみに読んでいた方はいっぱいおられたのではないかなと思います。
今苦しい現実を生きている方も、日々の憂いを昇華出来る日が来ることを願っております。
生きてることが辛いなら
私が20代の半ばに漫画の専門学校に通っていた時の話だ。
その時の講師が、キャラクターを作る練習として、
「電車に乗っている人のこれまでどうやって生きてきたか想像してみると面白いよね。」
とおっしゃっていた。
朝電車に揺られながらその事を思い出していた。
周りを見渡すとスーツ姿のサラリーマンばかり。
没個性でその人の人生を読み取ることは出来ない。
せいぜいどんな腕時計が好みか分かるぐらいだ。
先週のある日、帰宅時間に人身事故の影響で電車が遅れていた。
圧死するくらいのすし詰め電車で、自分の肩の骨が「こきっ」っとなって驚いた。
満員電車では隣り合う人々を「もはや人ではなくモノ」ぐらいにでも思っていないと精神的に参ってしまう。
ネットでは人身事故の生々しい話が載っていたが、どんな人が運ばれていったかは分からない。
そこに至るまでどんな人生を歩んできて、何がその行為まで至らせたのだろう。
以前『ありふれた奇跡』というドラマがやっていたのを見ていた。
ざっくりとしたあらすじは、電車に飛び込もうとする中年男性を近くにいた男性と女性が止める訳だが
、2人とも自らが死のうとした過去があってーーという話だった。
生きていれば表面に現れない、それぞれの事情があるわけだ。
でもことが複雑で繊細すぎて、他人が触れられない領域であったりする。
私は前の職場にいた時、ホームで電車を待ってたら知らないおじさんに話しかけられたことがあった。
普通は警戒すべきなんだろうが、その時は毎日会社で無視されたり辛く当たられていたせいか自然と話を聞いてしまった。
おじさんは自分の仕事の大変さらしきものを語りつつ、しきりに「俺はどうなってもいいんだよ」と言っていた。
現実の問題が解決するか否かということより、ただ今の現状を分かって欲しいと思う時があると思う。
ただ皆が皆、自分を大切に思ってくれたり、話を聞いてくれる人に恵まれている訳ではない。
今生きるのが辛いと思っている人に、何の事情も知らない私が「生きていて欲しい」と言うことは救いにもならない。
けれど、色々な人の人生を思って、色々な苦しみを抱えて生きている人がいることを想像して欲しいと思う。
彼女が見ていた桜の川
高校時代川のそばに住んでいた友人が、こんなことを言っていた。
「桜の季節は川に桜の花びらがいっぱいになって綺麗なんだよ。」
彼女は私と同じ市区町村に住んでいて、高校で初めて知り合った方だった。
私と同じ母子家庭で、私との共通項が他の人よりあったので、私は密かに親近感を持っていた。
大学生の時に彼女は少し離れた市区町村に引っ越してしまった。
私は彼女が話していた「桜の川」の景色がどんなものなのかずっと気になっていて、この季節になると川のそばに行こうと試みている。
でも私が行くと、毎回川に花びらなんて浮かんでいない状態だった。
心の中でまだ見ぬ景色を想像しつつ、彼女が偶然見かけた一回性のものなのかもしれないという疑念もわいてきていた。
今年も桜の季節が来て、川に吸い寄せられるように行ってみると、⬆のような景色を見た。
「あっ……これがそうなのかな。」
やっと辿り着いた景色がそこにある気がした。
もしかしたら、彼女が見ていた景色とは違っているのかもしれないが。
桜の花びらが散るのは葉桜の頃だと思っていたが、今回行ってみてまだ枝に花びらがたくさんあるうちでもこんなに散ってしまっているのかと少し驚いた。
散った花びらは流れに流れてどこへ行くのだろう。
よく人が使う平凡な例えで申し訳ないが、
「花が散るように人間の命も皆が思うより短し」
と思った。
今まで生きてきた30何年が長いのか短いのかは分からないが、色んな人がおったものだ。
人生辛いことの方が多かったけど、今やれることを精一杯やっていれば、「未来がどう」とか「過去がどうだったか」なんて気にする必要はないよね。
私は人の気持ちが分からんかったり、毎日とちってばっかだけど、そんな中でもどこかに心通じる人がおるのではと思って淡々と日々を過ごしているのです。
人工知能は感情を持つようになるか
先日『アンドロイドレディのキスは甘いのか』(黒川伊保子著,2017,河出書房新社)という本を図書館で借りて読みました。
タイトルを見て少しその場で固まりましたが(笑)、人工知能の話とか関心があったのと、ぱらっとめくったら読みやすそうだったので借りてみました。
内容の大筋は、
「人工知能が人間を越える日が来るのか」
という問いに対して、タイトルから察しがつく通り「アンドロイドは感情を持ちうるか」という観点から著者の意見が述べられておりました。
計算や素早く情報を処理する能力などにおいては人間は人工知能には勝てません。
しかし、「人工知能には感情は持てない」が故に人工知能は人間を越えられないと著者は述べておりました。
人工知能を人間らしく振る舞うようにさせるとしたら、人間の行動パターンをいくつも覚えさせます。
記憶した情報を元に状況に応じて、「適切な」対応を取るようにします。
しかしそこには何の感情の働きもありません。
「寂しい」と話かければ、「どうしたの?」と言ってくれるかもしれません。
人間であれば、その人が大切で何とかしてあげたいからいうのかもしれませんが、機械はただ「寂しい」というワードに対して「適切な」言葉を引き出しているに過ぎないというわけです。
誰かのブログを読んでいる方だったらうなずけるだろうという例が本書にはありました。
このワタクシのブログ、人工知能が書いてるんですよ。
ということだったらどうでしょうか。
私の今まで書いたブログの記事の文体とか、写真や絵の載せ方を記憶させておいて、あるキーワードを毎回与えて自動更新にしておくという。
このブログは風が吹けばどこかに吹き飛んでしまうくらい「うっすーい」内容の「しょーもない」ブログですが、少なくとも「うっすーい」「しょーもない」ヤツが書いているということは分かるでしょう。
ただ実際、私がスマートフォンを片手に書き書きしてるかは読んでくれている方には分からんのです。
小説や漫画でもよいのですが、作品を通じて読者は作者の人間性を感じとるもんです。
それによって作品や作者自身に惚れ込んだりするわけです。
それが全部「人工知能」が書いてたりしたら、モロがっかりしますよね。
「何だ全部作りもんやん!!」
って発狂してしまうかもしれません。(笑)
安心してください。(私が)書いてますよ。
(って古いな)
もしアンドロイドが感情を持ったら人間には勝ち目がなくなるんでしょうか。
ハンサムで気配りが出来たり、綺麗でナイスバディーなアンドロイドが出てきたら、人は色んな意味で「わずらわしくない」アンドロイドとの人生を選択するのでしょうか。
まぁ、そういうアンドロイドが開発されたとしても、その頃には私は生きておらんだろうので、その点はあまり心配はいらんかねー。(^_^;)
それに、より人間に近づけるためには「人間とはこういうものだ」という定義が必要なわけで、そんなことが簡単に出来れば哲学や心理学やあらゆる学問が要らなくなってしまいますねん。
私は「アンドロイドが感情を持ってうんぬん」という話が結構好きです。
ただ現実の人間は完璧でないところがあって、時に予想もつかないことをしたり言ったりします。
私は器用そうな人より不器用そうな人の方が好きですが、やはり不器用な人の方が人間らしいからかもしれませぬ。
どんな人であろうと、後にも先にも同じ人は存在しません。
『鋼の錬金術師』でエルリック兄弟が体を失っても亡くなった母親を作り得なかったように、「人間」を作ろうとしてはいけないのかもしれません。
人工知能が感情を持つのはフィクションの世界だけに留めて、人間はたった一つの人生を喜怒哀楽を経験しながら生き抜くのが一番かと思います。
社会人一ヶ月目で仕事を辞めた時のはなし
今日は通勤途中の駅で新社会人とおぼしき人を多く見かけた。
私が働き始めたのは10年ぐらい前の話だ。
苦しかった就職活動を突破して、やっと決めた職場であれば、皆何年か働く心づもりでいるはずだ。
初任給とやらが出れば、親に何か形に残るものとかも贈れるだろう。
今までとはがらりと環境も変わるけど、何とか頑張っていかないと。
そんな思いに反して、私は新卒で働き始めた会社を一ヶ月で辞めた。
初日から無理だと思った。
正確に言うと初日前から無理だと思った。
入社式の前日の3月末日に呼ばれて、何をするのかも事前にあまり知らされておらず、「顔合わせぐらいだろう」と思っていた。
確かに軽い食事会のようなものだったので、終わったら解散になると思っていた。
それが職場に連れていかれ、仕事を命じられた。
帰宅したのは10時頃だったろうか。
入社式も今となっては何をしたのかは覚えていない。
ただ多忙な職場だったので、仕事が怒涛のように押し寄せてきて、ついていくので精一杯だった。
職場で急いでいたらこけて、足をおもいっきり捻挫した。
痛くて床に寝た状態で動けずにいても、同僚は横を通りすぎていくだけで、全く声もかけられなかった。
思わず涙が溢れてきた。
「こんな目にあうなんて私悪いことしたのかな。」
賃金と引き換えに奴隷になったような気がした。
毎日表情も失われ、休みはただ死人のように寝てるだけ。
同期入社の人は私のようにはなっていなかったから、私が社会人失格なのだと思った。
毎日遅くに帰っているのに、毎日のように人身事故で電車が止まって帰りがもっと遅くなる。
もう限界だと思った。
会社に電話して「辞めたい」と言った。
そうしたら、
「まだ入社してたたないのに辞められるわけないでしょ?」
と責められた。
何回も仕事中に呼び出されては、「もう無理です」と告げて辞めることになった。
交通費も定期代は3ヶ月分を立て替えで購入するように言われていて、他支店に出向いた時の支払われていない交通費も支払われなかったため経済的に苦しかった。
それでもあのまま続けてたら、今こうして生きてなかったかもしれない。
辞めた後半年ぐらい転職活動をした。
正直職歴にもならない職歴では相手にしてくれるところは少なかった。
それでも自分が正しいと信じていた「社会人として当たり前」みたいなものは、会社によって色々違う点もあると就職活動をしてみて分かった。
今日駅を歩いていたら、「そんな時代もあったね」と話している人がいて、中島みゆきさんの『時代』が頭を流れていた。
今の日本に満足している人はどのくらいいるのだろう。
人の性質なんて色々だから、もっと多様な生き方があってしかるべきなのに、「規定のコース」を外れたら不利な状況になってますます生きづらくなる人もいる気がする。
別に皆がゴージャスな生活を望んでる訳ではないと思う。
衣食住事足りて、たまに自分にささやかな楽しいご褒美をするような生活でいいと思う。
それなのに、それすらままならない生活をしている人もこの世にはいるだろう。
今の自分の置かれている状況が辛い人も、未来を信じて生きられることを祈っている。
『おおかみこどもの雨と雪』の主人公は誰だろう
先日TVでやっておりました『おおかみこどもの雨と雪』を録画して見ました。
何度かTVでやってる他の細田監督作品が好きで、この『おおかみ~』も過去に録画したこともありますが、そのまんま放置していて今回初めて見ました。
ざっくりと把握していたストーリーは、「母一人子二人で奮闘する」ぐらいなもんでした。
ただタイトルから察するに、子供の方がメインなのだろうと思っておりました。
見終わった感想はというと。
「あれっ、主人公は誰なんだろう…………。」
というのが正直なところです。
監督の描きたかったところが子育てだとしたら、もちろん母親の花が主人公なはずです。
ただ物語はおおかみと人間の血をひく「おおかみこどもがいかに生きていくか」というテーマもあるので、だとしたら子供が主人公なはずです。
何だろう。
表現力不足で上手く言えないのだけど、「おおかみこどもを育てる母親目線」と、「自らがおおかみこどもである子供目線」は両方入れてしまうと「誰が主軸」なのか分からなくなるのではーと思ってしまうのです。
もし母親の花が子育てに奮闘するを主軸にするなら、何も子供が「おおかみこども」でなくても充分成立する気がします。
学生のうちに子供が出来てしまい、夫が早々に死んでしまい、農村で子育てするというだけでもかなり
ドラマチックな展開ですよね。
子供が出来るということは、それだけで人の人生を180度変えてしまうぐらいな訳です。
子育ての大変さは、おおかみであろうとなかろうと変わらんでは~と思うのです。
話を子供の雪と雨に主軸を置くなら、母親の過去の話だけでなく「おおかみおとこ」がどうやって生きてきたかというエピソードが欲しいです。
映画では花は「(彼が)生きている間に聞いておけばよかった」と言っておりますが、花自身は知らなくても、「観客」は知っておくべきだと思います。
「おおかみおとこ」はおおかみでもあり、人間でもあるという存在です。
周りに同じ境遇の人なんて当然一人もおりません。
彼がどういう環境で育ったかは不明ですが、人間の家庭に対する憧れがあるところから見ると、小さい頃から人間社会に身を置いて、周りの子供達と自分の置かれた環境の違いにずっと孤独感を感じてきたのではないでしょうか。
作中では子供達はあまり父親のことを知りたがりませんでしたが、私は子供達が大きくなるにつれて父親である「おおかみおとこ」がどうやって生きてきたか知りたくならないのかなと思います。
だって母親の花はおおかみの血を引いていないので、子供達の体の変化や自身に対する周りの態度とかを理解するのが難しいからです。
私がこの映画で一番好きだったシーンは、姉弟が自分の選ぶ道で対立して取っ組み合いをするところです。
姉弟にとって自分の境遇を理解出来るのは、お互いしかいない訳で、自分の考えに賛同させて「私(僕)の選択が正しい」と思わせたくなるのも分かります。
二人の生き方が違うのは当たり前な話です。
私は「性格を決めるのは生まれか育ちか」というテーマが結構好きですが、きょうだいはホント同じ親でも性格は色々です。
姉の雪が学校に通って、周りの子達を見て、「人間として生きたい」というエピソードは納得出来ます。恐らく彼女の父親もそうだったのかと思うので。
ただ弟の雨がおおかみとして生きる道を選ぶ動機が私には弱く感じました。
元々ひ弱で虫も苦手で、オール電化の家に住むしかないような少年が「本能に目覚めて」、生き方が変わるとは思えんのです。
彼は山奥で「師匠」に何を教わったのでしょうか。
人間として生きる道を全部捨ててまで進む道なのでしょうか。
母親と一緒に見た檻に入れられたおおかみを、雨は「寂しそう」と言ってました。
動物園で生まれ育ち、野生を知らないおおかみの寂しそうな姿は、野生の道を選んだ雨の行く末のような気がしてなりません。
人間として生きるにしても、おおかみとして生きるにしても、ずっと自分の性質と付き合っていくしかないのです。
雨は人間社会に馴染めず、野生の道を選んだのかもしれませんが、野生動物と自分の違いに葛藤する日が来るのではないかと思ってしまいます。
ハーフの方で「顔は外国人なのに英語が話せない」という話をしているのを聞いたことがあります。
どちらかの姿しか認めてもらえないとしたら、人生かなり生きづらいものになります。
全ての人にとは言いません。
自分の人間的要素も、おおかみ的要素も両方持った個人として認めてもらえる環境こそがその人の居場所かなと思います。
私の家は母子家庭でしたので、映画に共感する部分はかなりありましたが、人間とおおかみとの間でアイデンティティーの葛藤みたいなストーリーが主軸だったらドはまりしてたかもしれないですね。
一つの価値観に縛られない生き方
◎はじめに
『「ひきこもり」経験の社会学』(関水徹平著、2016、左右社)という本を図書館で借りて読んだ。
「ひきこもり」というと皆はどういうイメージを持っているだろうか。
この本の表紙にはでかでかと数字の「3」が書かれている。
これは「ひきこもり」とされる人の中で、外に出られない人の割合が3%という、世間の「ひきこもりとは自室にこもっている」というイメージとのギャップを表している。
このように世間がとらえる「ひきこもり」の捉え方と、自らを「ひきこもり」とする人の捉え方は異なっている。
本書では「ひきこもり」経験をした当事者の視点と、経験のない当事者以外の視点から「ひきこもり」経験とは何かを問い直し、あるべき社会の姿について考えさせる本である。
◎当事者にとっての「ひきこもり」経験とは
「ひきこもり」状態になる人の事情はそれぞれだ。
自分が所属する学校や職場に何らかの違和感を感じたり、そこでつらい経験をして通えなくなることもある。
理由はどうであれ当事者が苦しむのは、「なぜ学校に行かないの?」「なぜ働かないの?」という世間からの問いかけと、それに対する「なぜ自分はそうできないのか?」という自分自身への二重の問いかけである。
本書では「ひきこもり」経験のある方のインタビューの内容が紹介され、どのようにして周りが期待するような生き方が出来ない自分と向き合ったか語られている。
他の人が出来ることが出来ない自分を責めて苦しむ中で、次第に世間が突きつける問いが正しいのかという疑問が生じ、そんな自分にでも受け入れてくれる環境があるのではと思い始める。
そのきっかけとなったのは「ひきこもり」という言葉によるものである。
自分のどうしようのない、どうしたらいいか分からない状態が、「ひきこもり」というワードを介して同じような悩みを抱える人やそういった方を支援しようとする人とを結び付ける。
それは書籍などのメディアの場合もあれば、同じ経験を持つ人同士の集まりである場合もある。
自らを「ひきこもり」とすることは、周囲からそれに付随する否定的なイメージとともに一括りに見られる一方で、自分は皆とは分かり合えないという孤独感が癒され、未来の自分の生き方を考えるきっかけを与えてくれる。
◎当事者以外にとっての「ひきこもり」経験とは
ここでは世間で「ひきこもり」がどのように扱われてきたかをたどっている。
当事者以外が語る「ひきこもり」問題に共通するのは、語る側が想定する正常性を基準として、それに対する「逸脱」としての位置付けである。
それには主に以下の文脈で語られている。(p.238)
・社会的自立を基準とする「就労」
・人並みの暮らしを基準とする「貧困」
・メンタルヘルスの正常性を基準とする「精神保健」
「ひきこもり」が世間で知られるようになって、当初は何らかの精神疾患によるものや、「打たれ弱さ」といった性格的な部分によるものといった語られ方から、若年層の雇用環境の変化による就労や貧困問題と関連して語られるようになってきたのがうかがえる。
問題を個人の問題だけではなく、社会の問題としての見方がされるようになることは、望ましい流れではあるが、いまだに「逸脱」した状態から想定された「こうあるべき状態」に移行することが目指されているという点で、「ひきこもり」当事者がよりよく生きるための議論には至っていない。
◎「ひきこもり」の人が目指すべきところはどこか
今現在「学校に行けない」、「働けない」と苦しむ「ひきこもり」の人が目指すべきところはどこなのだろうか。
例えば働けないで苦しんでいる人が、定職に就くようになれば問題は解決したと言えるのだろうか。
人の価値観、考え方、生き方などについて、かくあるべきという基準を設け、その基準に同化することをよしとする考え方を「同化主義」と呼ぶならば、「ひきこもり」経験者たちの多くは、少なくとも当初は「多数派のあり方への同化主義」にとらわれている。
彼・彼女たちが葛藤を経験するのは、多数派の生き方から「逸脱」し、基準に適合できない自分を否定せざるをえないからだ。(p.357)
とあるように、「学校を卒業したら定職に就くべき」ということに同化しようとしてできなければ、それ以外に生きる道が閉ざされたと感じるだろう。
冒頭で紹介したように、「ひきこもり」の人の中で文字通り「自室にこもって外出しないでいる」割合は少ないということは、目的によっては外の環境とつながることが出来るということだ。
ここでは「ひきこもり」の人であっても、趣味や関心のある事に参加できるという例をあげ、どのように社会と結びついてゆけばよいか次のような考えが示されている。
状況的自己に関する考察は、「ひきこもり」経験者にとって、状況に参加するために自分を鍛錬しようと考える必要はないことを示唆する。必要なことは、どのような状況であれば参加できそうなのか、あるいは参加したいのかを考え、参加できそうな状況には参加してみるという試行を繰り返すことだ。そこで求められているのは、参加に踏み出せない自分自身を変えようとする努力というよりは、自分がどのような状況であれば参加したい、あるいは参加できると思えるのかを冷静に考えるー抽象的な「社会参加」についてではなく、具体的な状況への参加について考えるーことだろう。(p.278)
「ひきこもり」の人が、一度は外れてしまった多数派の生き方をもう一度生きる目標にするのも一つの生き方である。
しかしすべての人が皆と同じように学校に行ける、働ける状態が必ずしもゴールではないと言える。
社会とつながる環境は一つではないし、自分がらしく生きられる場所は、何回も試して辞めてを繰り返してやっと辿り着ける場所なのかもしれない。
「ひきこもり」経験とは、ごく限られた人のみに関係する話ではなく、全ての人がより良い人生を生きるために試行錯誤する過程でもある。
◎おわりに
ここではこの本のざっくりとした感想と自身の経験を述べて結びとしたい。
私自身に「ひきこもり」経験はないけれど、学生時代の友人にはひきこもり気味の人がいた。
友人の抱える辛さは本人にしか分からないし、何をしてあげればいいのか私には分からず遊びに誘うぐらいしかできなかったが、ただ友人が苦しくない環境が見つかればよいなと願っていた。
今から10年前ぐらいに私は大学で社会学を学んでいたのだが、関心があったのは同年代やそれよりすこし前の世代の就労問題だった。
以前若者を取り巻く働き方の話といえば、やりたいことをするために敢えてフリーターをするという話がよく語られていた。
それが自分が就職活動をする頃には、若者の働き方を語るうえでニートというワードが出てきた。
これまで信じられてきた卒業後は定職に就いて、「普通」の生活を送るという価値観が揺らいでいた。
若者に関して、やりたいことをするためのフリーターというイメージがあったためなのか、「働けない」人は社会の問題というより、自立できない個人の問題としての扱いがされてきた。
社会問題が問題としてあらわれてくる背景には、社会の既存の仕組みが上手くいっていない部分があると感じる。
もちろん自ら選んだ生き方として定職に就かないという選択肢もあるかと思う。
しかし世の中には「働きたくても働けない」、「何かしようにも何をどうすればよいかわからない」といった人もいるのだ。
この本で紹介されていた日本の福祉が立ち遅れているという現状は「ひきこもり」問題にとどまらず、日本のあらゆる問題に通じている話なのでこれからも議論されるべき話題だと思う。
現状個人の生活を成り立たせるためには自営で稼ぐか、企業に勤めることで得られる所得によるものである。
それが出来なくなった場合の生きる道が残されていないため、過労死寸前まで働く職場でも働き続ける人が出てくるのだろう。
社会福祉が整うことで、「ひきこもり」の人を含め、すべての人が人生を何度でもやり直す基盤ができるはずなのに、現状はなかなか厳しいものである。